「自分のしあわせを考えることにつながる映画です」 『百姓、わらう。』柴田昌平監督インタビュー

 

 毎日のごはんの向こうには、どんな顔、どんな土地が見えるだろうか。日本の全人口のわずか0.1%しかいない49歳以下の若き農家たちの取り組みに密着し、100年先の農を見据えるドキュメンタリー映画『百姓、わらう。』が、10月17日(土)より第七藝術劇場、10月23日(金)より京都シネマ、10月31日(土)より元町映画館ほか、全国順次公開される。

 本作の柴田昌平監督にお話を伺った。



▪️なぜ若き百姓たちは、「100年先」の未来を語るのか


 足掛け8年、全国各地のさまざまなタイプの農家を見つめ続けてきた柴田監督。農業の厳しい現実を知り尽くしているはずの彼を、本作の撮影へと強く突き動かしたのは、若き農家たちとの出会い、そして「ある驚き」だった。

 彼らの農場を訪ね、言葉を交わすなかで、監督はハッとさせられたという。彼らは、目の前の収穫や目先の利益ではなく、ごく自然に「100年先の未来」を語っていたのだ。

 「自分にはそういう感覚がなかったんですよ。僕らの世代(1963年生まれ)は右肩上がりの高度成長の時代を生きてきて、何となく“将来はよくなる”と思い込んでいた。でも実際には、その成長の過程で環境など多くのものを失わせてしまった。右肩上がりやバブルを知らない若い彼らが、僕らが壊してきた土や環境をもう一度整えようと『100年先』を語るのを聞いて、衝撃と同時に、どこか申し訳ない気持ちにもなりました」

 なぜ若き百姓たちは、はるか未来を見据えるのか。柴田監督は、彼らが「環境は簡単に壊れてしまうこと」を実感として知っているからだと語る。そして彼らが指標としているのは、今の世代ではなく、自然と共生していた100年前の先人たちの知恵だというのだ。

 自分がそれまで当たり前だと思っていた未来の捉え方を根本から見直すきっかけをもらい、監督は、未来にタネをまこうとする若い農家たちへより深く焦点を当てるようになっていった。明確なテーマを掲げるよりも、まずは目の前の人たちに会いに行く。インターネットや農業専門誌では決して見つけられない彼らとのつながりから、本作の撮影は静かにスタートした。



▪️見えない「土の中の営み」にこそ、未来のヒントがある


 実は、筆者である私自身、昨年初めて米作りを体験し、土づくりが作物の出来を左右することを、身をもって知った。今まで邪魔者扱いして抜いていた雑草も、実はその根が土の中の空気の通り道を作り、土を窒息させない役割を果たしていると知ったのもつい最近だ。ただ、土の中のことは見えないだけに、何が起きているのかを理解するのは相当専門的な領域になるのではないか。柴田監督自身も、今回の取材を通じて、土への理解が深まったという。

 「農家の人がみんな『土づくりが大事』って言うけど、どういうことか、最初はよくわからなかったんです。土は大事と言っても、化学肥料を使うと別物になってしまう。本当の意味で土づくりの大事さがわかったのは、この取材を通してだと思います」

 映画では、土の中の微生物と植物の関係をアニメーションで解説し、目には見えない土の働きを、できるだけ具体的に伝えようとしている。草を抜かないのは、単に手入れを怠っているからではなく、土を育てるうえでの意味がある。その仕組みがわかれば、畑の見え方も変わってくる。

 「いきなり自然農法的なことをやっても、『どうせ失敗するに決まってる』と思う人は山ほどいます。でも実はこういうふうに理にかなっているんですよ、ということが目に見えてわかったほうがいいと思ったんです。実は、世界の農業の最先端では『土』にすごく注目しているのですが、日本の農政がその大事さに気づいたのはごく最近のことです。だからこそ、農業に対する考え方が異なる世代間の断絶をつなぐ意味でも、アニメーションであのぐらいわかりやすく伝えたほうがいいと考えました」




▪️100年前の先人の知恵で、もう一度この土地を生きていく


 土と向き合い、土地の歴史と向き合う百姓の姿も克明に描かれる。広島で棚田を復活させようとしている岡田和樹さんの姿は、柴田監督にとって強く印象に残るものだった。江戸時代にまでさかのぼる人々の記録や書物を読み解き、そこに記された知恵や焼き土の伝統を現代に甦らせようとしている。棚田の復活に向けて、一鍬一鍬、地道な作業を積み重ねていく。そうして再生した棚田の周りは、子どもたちがアスレチック場のように遊べる場所にもなっている。

 「先人の背中が見えないと言いながら、自ら昔の書物を読み解いて、もう一度それで生きていくっていう、その迫力を感じました」

 一方、岡田さんが暮らす地域から山を越えた海辺には、工業化によって生まれた風景が広がっている。

 「廃墟のようになっている埋め立て地があり、負の遺産が生み出されている一方で、コツコツと棚田を再生させている。両方が見えてしまう場所で、ショックだったんですよね」



▪️撮影断念の危機。そして出会った北海道の「マイペース酪農」


 柴田監督は現地に住み込み、農家の暮らしを長い時間をかけて撮影していった。しかし、映画の輪郭が少しずつ見え始めた矢先、大きな転機が訪れる。長年取材していた東北の畜産農家が、経営を続けられなくなったのだ。畜産農家はずっと大規模化・効率化をするように農政から求められてきた。借金を背負い、返済するために馬車馬のように働く日々。そうした集約化から、持続可能な方向へと転換していこうとしていた畜産が、借金の重荷ゆえに倒産してしまったのだ。

 「4世代で、笑顔で働く素敵な家族でした。輸入飼料に頼る経営から、自給飼料に切り替えようと努力していました。その人がいたら、この映画はまた違う流れだったんだけど、悲しいことに、全財産が差し押さえられてしまった。裁判もあり、この映画ですぐに取り上げるわけにはいかなくなりました」

 撮影を続けることさえ難しいと感じるほどのショックを受けた柴田監督だったが、思いがけない出会いが、監督を新たな方向へと導いていく。北海道中標津町で「マイペース酪農」を提唱・実践している酪農家、三友盛行さんだった。三友さんの家に泊めてもらい、そこで学ぶ酪農家志望の若い人たちとも時間を過ごすなかで、映画の重心は少しずつ変化していく。

 「この映画の根本のテーマって、多分、“豊かさって何だろう”みたいなものではないかと気づいたんです」

 土をよくすることは、何のためなのか。農業を続けることは、どんな暮らしにつながるのか。収入や生産量を増やすことだけが、豊かになることなのか。さまざまな百姓との出会いを通して、監督のなかで問いが深まっていったのだ。



▪️「土と草を見る力」を取り戻す


 かつて日本やアジアの農村では、地域の中で資源を循環させる農業が営まれていた。しかし戦後の近代化や大規模化の流れのなかで、地域に根づいていた環境負荷の少ない農業が失われていった。北海道の若い酪農家、平石さん夫妻の取材からは、効率化や機械化が必ずしも農家の負担を軽くするとは限らず、かえって経営や暮らしを圧迫する場合があることも見えてくる。

 平石さんは、父の代で大規模酪農に舵を切り、多額の借金を背負って働き詰めだったという。しかし放牧酪農に戻り、牛の頭数は半分に減らしたが、コストも労働時間も大きく減らすことができ、手元に残る所得も大きく落ち込むことはなかった。何よりも、家族と過ごす大事な時間も取り戻すことができた。

 しかし、そこへ至る道のりは決して平坦ではなかったという。

 「本当に放牧をやろうとすると、土と草を見る力がどうしても必要なんですよ。本来、みんな持っていた観察力、判断力が、便利になるからと畜舎で育て始めてから全部奪われてしまった」

 大規模化で失った、自然に対する観察眼と、知恵を取り戻す道のりでもあったのだ。



▪️「所得400万円」が教えてくれる、自分のものさしで生きる豊かさ


 劇中では、農家の収入や経費といった、普段はなかなか聞くことのできないお金の話にも踏み込んでいる。しかしそれは、単なる経営論ではない。

 例えば、広島で微生物の力を最大限に生かした野菜づくりをしている森昭暢さんは「所得400万円の農業」と「600万円の農業」は違う、と言う。ただ収入を増やそうとすれば、人を雇い、管理する仕事になり、労働の質が変わってしまう。それよりも、作物や生き物と対話し、家族と食卓を囲む時間をたっぷり取れる農業を選ぶ。まず「自分たちはどう暮らしたいのか」という望む生き方があり、そのためにいくら稼ぐかという明快なロジックがあるのだ。

 新潟の百姓・鴫谷幸彦さんもまた、めざす所得は400万円と語る。そのためには、経費や自分の時給をどのくらいに設定し、誰とつながっていくべきなのか。映画の中で彼は、その仕組みを明快に語ってくれている。

 はからずも、離れた土地で農業を営む二人が、ともに「400万円」という具体的な数字を口にした。都会に暮らす人からは「家族でそれでは暮らしていけないのでは?」と心配する声も聞こえるかもしれない。しかし彼らは、「足るを知る」暮らしを家族とともに心から楽しんでいるのだ。

 そもそも右肩上がりの成長戦略を農業にも当てはめることは、気候変動が進み、人口減少が進むなど、これまでの前提が揺らいでいる時代、本当に最善なのか。

「経済界の人にもこの映画を見てもらおうと思い、地方銀行の顧問を務める知人に見てもらったところ、『地方の銀行で右肩上がりになんてありえない。右肩上がりとかノルマ主義は、失ったものが多すぎる。本当に優れた経営者は、そういう目標ノルマ主義とは違うやり方で経営している』と言うんですよ」

 自分たちの豊かさの尺度は、自分たちで決める。彼らの姿は、スクリーンを見つめる私たちに「あなたはどう生きたいのか?」と強く問いかけてくる。



▪️現場を知らない大手メディア。失われた「食べる側」とのつながりを取り戻す


 農業の現場には豊かな知恵と哲学が溢れている一方で、柴田監督は、農業を取り巻く「周りの冷たさ」に強い危機感を抱いている。その最たるものがメディアのあり方だ。

 「僕は元々NHKの職員でしたが、NHKは農業人口が4%を切ったタイミングで農業を専門とする部署をなくし、農家目線から消費者目線に切り替えてしまった。今、日常的に農家を取材して、農家の立場で報道できる職員はテレビ局にいません」

 現場を知る者がいなくなれば、「安ければいい」という消費者目線の報道ばかりが先行してしまう。コロナ禍などで苦境に立たされる農家の痛みに寄り添うことなく、表面的な情報だけが消費されていく。本作が担おうとしているのは、そうして断絶されてしまった「農家」と「食べる私たち」の血の通ったつながりを取り戻すことでもあるのだ。

 そして「農水省」に対する神話を脱ぎ捨てる必要もあるという。

 「本格的に農業を取材する前は『農水省にきけば農家のことは分かる』と僕は思っていました。しかし8年にわたる取材を経て、自分の中での今の本当の結論は、農水省は農家を守るためじゃなくて、消費者のために安く作らせる役所になっている、ということです。また、農地を維持する役割があるのに『兼業農家』が十分に評価されず、ネガティブに扱われてきたことも、農業を続ける人が減ることに拍車をかけています」



▪️悔しくても、怒っていても。「わらう」に込めた思い


 とりわけ厳しいと言われる農業をめぐる状況のなかで、明るい未来を描くのは簡単ではない。それでも、映画のタイトルやナレーションには「笑う」という言葉が繰り返し登場する。監督は、「わらう」という言葉に込めた思いをこう語る。

 「『百姓、輝く。』だと違うんですよね。それだと農水省の宣伝映画のように綺麗事になってしまう。人間って、悔しいときや怒っているときでも『わらう』じゃないですか。」

 そもそも「百姓」という言葉は、百の仕事(生業)をこなすことができる、農家にとっては誇り高き生き方を指す言葉だ。

 「映画の中の農作業も同じで、農業を知らない人が見ると、ただの過酷な労働で苦しそうに見えるかもしれません。でも、泥まみれになっている本人たちにとっては、それが本当に深い喜びなんです。その綺麗事ではないリアルな逞しさや感情を表現するには、『わらう』という言葉が一番しっくりきたんです」



▪️自分のしあわせを考えることにつながる映画


 映画に登場する若き百姓たちは、家族と暮らし、地域の人たちと関係を築き、村や土地の100年後を見据えた未来をつくろうとしている。地域の中で資源を循環させ、人と人とのつながりを育む農業のあり方にこそ、未来への手がかりがあるのではないだろうか。最後に、柴田監督はこう語る。

 「本当に僕は、農業はよくなっていくと思っているんです。農業をやっている人たちはもう一生懸命やっているので、食べる側が変わらないといけないですよね。それは何かを大きく変えるということじゃなくて、まず、ちゃんと知るだけでも違うと思う。何を買おうか、どんな野菜を食べようか、ちゃんと自炊しようとか。何がしあわせなのか、日々みんなで考えていけば、みんながしあわせになるんじゃないか。難しいことを考えなくても、自分がしあわせになるためにはどうしたらいいのか。そういうことを考える映画かもしれないですね」

 私自身も、米作りを体験したことをきっかけに指導農家さんとのつながりが生まれ、その農家さんが育てた採れたての有機野菜を手に取れるようになった。そうすると、野菜の向こうに作り手や土地の具体的な背景が見えてくる。そんな小さなきっかけが、土や農への興味につながり、自分の行動や選択にも影響を与えている。

 「食べる側が変わらないといけない」という監督の言葉は重い。

本当に見るべきもの、守るべきものは何なのか。そして、何に心を動かされ、どんなしあわせを大切に生きていきたいのか。映画を楽しみながら、ぜひあなた自身の答えを見つけてほしい。

(江口由美)



<作品情報>

『百姓、わらう。』(2026年 138分 日本)

監督・撮影・編集・語り 柴田 昌平

プロデューサー・撮影 大兼久 由美

制作・著作・配給 プロダクション・エイシア

https://www.100sho.info/

© 農と市民をつなぐ会(プロダクション・エイシア)