『ペパーミント・キャンディー』歴史に翻弄された男が、死の間際に帰りたいと願ったあの頃

やっと、やっと観ることができたイ・チャンドン監督の『ペパーミント・キャンディ』。『オアシス』をシネピピア恒例の名作選で見て、心を鷲掴みにされ、それからレンタルビデオ屋を探したけれど、前作の『ペパーミント・キャンディ』がみつからなかった。つい最近のような気でいたが、もう15年近く前の話だったのだ。イ・チャンドン監督の最新作『バーニング 劇場版』公開後に企画された『ペパーミント・キャンディー 4Kレストア・デジタルリマスター版』 『オアシス HD デジタルリマスター版』の上映。観たいと思ってから、かなり時間がかかったが、その間に私自身も主人公と同様に年を重ねた。そして韓国民主化闘争を描いた『1987、ある闘いの真実』、光州事件を描いた『タクシー運転手 約束は海を越えて』が昨年続いて公開されたことで、80年代韓国で起きた闘争や事件が軍隊、警察といった政府側と市民や学生側とで大きな隔たりを生み、この時代を生きた人の人生に大きな影響を与えているであろうことが窺い知れたのだ。


心地よいストリングスのメロディーが流れる中、白い点がだんだんと大きくなっていく。この物語で時間を遡る際には必ず差し込まれる線路が登場し、河原でのピクニックが映し出される。楽しいはずの同窓会ピクニックに一人スーツ姿でフラフラと近寄ってくるのが、本作の主人公、キム・ヨンホ(ソル・ギョング)だ。思い出の歌であろう歌を、カラオケに合わそうともせず、勝手に歌い、めちゃくちゃに踊り、ついに陸橋の上に立ち尽くすと、近く列車の正面で手を大きく広げて絶叫する。「もうだめだ。帰りたい!」


人生という列車に乗った私たちは、線路があると前に進むしかない。人生は後戻りできないからこそ、今からやり直すこともできるはずだが、ヨンホにその気力はもうなかった。後戻りできない人生をプレイバックするかのように、映画は線路の上を進みながら、少しずつ時計の針を巻き戻していくという仕掛けが、ヨンホの過去と、時代に翻弄された彼の運命を明らかにしていく。

自暴自棄のピクニックの直前に、危篤のユン・スニム(ムン・ソリ)に会ってほしいとその夫に病院へ連れて行かれたヨンホ。ただならぬヨンホの姿と、その後に渡されたカメラに二人の過去がうっすらながら浮かび上がる。一方、ヨンホは別れた妻、ホンジャ(キム・ヨジン)の家に行くが、玄関チェーンを開けてもらえない。完全拒絶だ。


事業に成功し羽振りがよかった94年、ヨンホ一家は大きな家に引っ越しし、安泰に見えたがホンジャもヨンホも不倫していた。形だけの家族。でもまだ世間的には夫婦だった。ヨンホがあるレストランで出会った男は知り合いにしては、どこか緊張を隠しきれない。そんな男とトイレで再会したヨンホは語りかける。「人生は美しい、だろ?」


男は、87年、警察官だったヨンホが、学生運動の指導者の居場所を聞き出すべく、暴力的な取り調べを加えていた相手だった。男が日記に書いていたのが「人生は美しい」。反語のように映画につきまとう言葉だ。ヨンホは、ホンジャの出産も職場で知る仕事人間だが、まだ新しい命を待ち構える初々しさがあった。

やっとのことで聞き出した潜伏先の群山(大阪アジアン映画祭2019で上映されたチャン・リュル監督作『群山:鵞鳥を咏う』ではムン・ソリが主演している)で、ヨンホは張り込みの合間に訪れた店の女に、初恋の人ユン・スニムに会いにきたと話し、一夜を共にする。自分のことをスニムと思って言いたいことを語れという女のもとで涙するヨンホ。朝、ようやく同僚が首謀者を逮捕したのに、魂が抜けたような表情をみせる。ここで観るものも、ヨンホの内面の柔らかい部分を垣間見るのだ。


初恋の人ユン・スニムは、何度かヨンホを訪れていたこともわかってくる。独身時代最後の出会いとなったのが84年、警察官になりたてのヨンホは、初めて取り調べで逮捕された裸の男を吊るし上げるシーンが映る。食堂の娘、ホンジャには自転車乗りを教えたりと、感じの良い青年に見えるヨンホだが、スイッチが入ると、人が変わったように暴力的な行動をとる。何かがトラウマになっているかのように。そんなヨンホを訪ねてきたスニムは、会えなかった日々のことを何も知らない。80年の徴兵時にも会いに行ったというスニムがヨンホに渡したのは、かつてカメラマンを目指していたヨンホのためにお金を貯めて買ったカメラ。スニムは突き返されたものの、そのカメラを死ぬまで持っていたことを知っているのは、観ている私たちだけだ。過去をたどるというのは、なんとも切ない作業だなと思う。一方、初めて結ばれるホンジャとヨンホの姿に、また別の感慨を覚えるのだ。


ヨンホの人生を大きく狂わせた80年の光州事件。厳戒令の中、制圧する側として現地に動員された兵隊のヨンホが誤射で女子高生を殺してしまったことで、その人格まで変わってしまったことはその後の彼の人生をすでに辿ってきた観客に痛いほど突き刺さってくる。そして時は79年、冒頭と同じ場所でのピクニック。同じ河原、同じ陸橋だが、そこに集っているのは前途洋々の若者たち。フォークギターの音色に合わせて、輪になって歌を歌う。河原に咲く花に目を留める心穏やかな若者のヨンホとスニム。スニムが渡したペパーミント・キャンディは、当時彼女が毎日工場で包んでいたものだ。いつかきた場所のように思えるというヨンホが一人流す涙は、この幸せが続かないかもしれないことを予見していたのか。それとも20年後のヨンホが死の間際に見た夢だったのか。誰にも言えない後悔の念を抱え、何かに頼りたくて仕方なかったヨンホの制圧する側にも属した波乱に満ちた人生は、イ・チャンドン監督ならではの詩情豊かな映像も交えながら、大きく、大きく、胸を打った。『バーニング 劇場版』とオーバーラップするようなシーンもあり、今観たからこそ、より深く味わえた気がしている。そしてくたびれはてた中年から若き青年時代までの20年間のヨンホの軌跡を見事に演じたソル・ギョングから目が離せなかったことは、いうまでもない。


<作品情報>

『ペパーミント・キャンディー 4Kレストア・デジタルリマスター版』 

 1999年/韓国・日本/130分

原作/脚本/監督:イ・チャンドン 

出演 ソル・ギョング ムン・ソリ キム・ヨジン