高等弁務官に立ち向かった玉城ウシから、民主主義をかけた闘いと沖縄女性史を紐解く 『サンマデモクラシー』山里孫存監督インタビュー


 まさに「役者は揃った!」と言っても過言ではない。米統治下の沖縄で、民主主義を求めて闘った伝説の男、瀬長亀次郎。亀次郎と同時代にそのビッグマウスぶりから「下里ラッパ」と呼ばれ、政治家、弁護士として活躍した下里恵良。でも今回の一番の主役はこの二人のような政治家ではない。1963年に琉球政府を相手取り、当時沖縄で大きな話題を呼んだ「サンマ裁判」を起こした魚屋の女将、玉城ウシだ。

この「サンマ裁判」を入口に、返還前の沖縄で、民主主義と司法権をかけた闘いに挑む人々をエンターテインメント要素たっぷりに描いた沖縄テレビ放送劇場公開第二弾作品『サンマデモクラシー』が、7月31日(土)〜第七藝術劇場、8月13日(金)~京都シネマ、今秋元町映画館他全国順次公開される。

 監督は、『岡本太郎の沖縄』『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』でプロデューサーを務めた山里孫存。『ちむぐりさ〜』同様、若い人たちに沖縄が抱える問題を訴求するため、川平慈英のパワフルなナレーションと、うちな~噺家 志ぃさーの心にしみる語りを中心に、活弁、ロックを取り混ぜ、戦前戦後の沖縄の政治家、裁判官、市民たちの闘いをアップテンポに描いている。特筆すべきは、玉城ウシを通して描かれる沖縄の女性たちの闘いだ。証言や映像が少ないなか、調査を重ねてその人物像や当時の女性たちの生き様に迫っていくのも見逃せない。

本作の山里孫存監督に、リモートでお話を伺った。



■占領時代を実体験として伝えられる最後の世代

――――『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』の平良監督も、若い人に観てもらえるように考えて作ったとインタビューでおっしゃっていましたが、本作もまさにその世代にまずは楽しく観てほしいという意図が伝わってきました。

山里:語り手のうちな~噺家 志ぃさーによる冒頭の「沖縄が日本でない時代があったの?」というセリフを入れましたが、今の沖縄の子どもたちですら、アメリカの占領下にあった時代のことを知らない。僕は復帰した時に小学2年生で、子どもなりに感じるものがありましたから、僕ら世代が次世代に伝えていく責任世代であり、実体験として伝えられる最後の世代ではないかという思いがありました。どんなにいいものを作っても、観てもらえなければ意味がないと常々感じていましたから、魚屋のウシおばあが、サンマを巡って高等弁務官と裁判で闘ったという入口の設定が興味を引く『サンマデモクラシー』なら、若い人たちにも届くのではないか。そう思い、あの手この手を駆使しながら、よりサンマを美味しく食べていただける(内容に興味を持っていただける)ように、作っていきました。


――――復帰の実体験として、どんなことが強い記憶として残っていますか?

山里:いちばん大きかったのはお金が変わったことですね。生まれて初めて使ったお金もドルだし、お小遣いはドルでもらっていました。1セントだとおせんべいが1枚買えるとか、ようやく貨幣価値がわかってきたころに、突然「明日からドルが使えないから」と。1ドルが300円と言われても、感覚的に捉えるのが難しいし、1円出しても駄菓子屋のおばあちゃんに悲しい顔をされながら「もう、この1円玉じゃ、おせんべいは買えないんだよ。10円なら買えるけど」と言われてショックを受けました。当時の僕の感覚だと物価が10倍になった気分です。交通ルールも逆でしたし、子どもながらにフェンスが生活の中にありました。フェンスに隔てられたこちら側の沖縄は、狭い土地に家がひしめき合っているのだけれど、フェンスの向こう、アメリカの子どもたちが暮らしている場所は、広い芝生があり、素敵な平家や白いブランコがあったので、羨ましかったですね。

 フェンスを隔てて僕らの方が中なのか、外なのかという疑問がありましたし、アメリカの子どもたちがこちら側に来ても怒られないのに、僕らがフェンスの中に入ったら捕まってしまう。そういう体感できる理不尽さが記憶に残っています。占領下の時代を知らない世代からすれば嘘のような話ですから、そういう部分も『サンマデモクラシー』に取り入れたかったところでした。



■玉城ウシやそのご家族から浮かび上がる沖縄女性史

――――瀬長亀次郎さんは佐古忠彦監督によるドキュメンタリーをご覧になった方も多く、有名ですが、玉城ウシさんの闘いは全く知りませんでした。まさに女たちの闘いでもありますが、一般人であるウシさんのことを調べるのは大変ではなかったですか?

山里:瀬長亀次郎さんが政治家として沖縄の歴史と向き合っていたことは知っていても、一般の人が琉球政府や米国弁務官に「それはおかしい」と立ち向かったというのは、玉城ウシさんに出会ったことで知った事実でした。亀次郎さんはスーパースターなので、ウシさんとどこかでつながらないかと調べていたら、亀次郎さんの妻、フミさんが、まさにウシさんが闘っていたサンマ騒動で、婦人代表として抗議文をまとめていたと彼の日記に書かれていたのです。調べていくうちに、沖縄の主婦たちがサンマの値上げに反応して立ち上がっていたことがわかってきた。沖縄テレビのライブラリーを探しても、主婦たちがサンマの値上げに対するデモをする映像がどんどん見つかり、探していてとても興味深かったです。

 もう一方で、玉城ウシさんの人物像をより深掘りして理解するために、出身地の糸満の歴史を調べましたし、彼女の妹がフィリピンに移住したことを知り、当時糸満の女性がフィリピンに移住してどういう人生を送っていたのかも調べました。糸満の漁師たちが漁場を求めてフィリピンに行き、そこで魚を売りさばくために糸満の女性たちを連れて行ったようです。言葉もわからなかったでしょうが、糸満女性のバイタリティーで、フィリピンの市場で魚を売っていたことがわかってきた。そして、移民女性たちが戦争時に日本軍と行動を共にし、最後には足手まといとなって殺されるという話もあったのです。ウシさんにしても妹のトクさんにしても、具体的な状況まではたどり着けませんでしたが、周辺の状況や別の女性の歴史はいろいろな文献やリサーチで出てきたので、ふたりもそうだったのではないかと想像した部分はあります。玉城ウシというひとりの女性を追いかけることで、沖縄の戦前、戦中、戦後の女性史がかなり見えてきましたので、ウシさんやそのご家族のことを調べてわかったことを、女性史の中に盛り込みました。



■写真一枚に託す方が、ウシおばぁに感情移入できる

――――玉城ウシさんの闘いやその人生をさまざまな方面から浮き彫りにしていましたが、実際にウシさんの描くにあたり、下里さんのように再現ドラマや当時の映像を使うのではなく、新聞記事となんども登場する写真1枚で表現されていましたね。その狙いは?

山里:下里恵良さんをサイレント映画風の再現シーンで描こうと決めたとき、ウシさんについても再現シーンを入れるべきではないかと話し合い、実際にキャスティングまで考えていました。でも実際下里さんの再現シーンを撮り終え、ウシさんについて、中途半端な再現シーンはいらないと思ったのです。とにかく彼女の写真のインパクトが強い。佐藤栄作と似ているという話が挿入されていますが、オーバーラップさせると目も鼻もこちらがびっくりするぐらい似ている。あの写真一枚に託す方が、ウシさんに対してどんどん感情移入していけるのではないか。最初、怖い表情に見えていたおばあが、同じ写真なのに柔らかく見えてきたり、微笑みかけているように見えるのではないか。

 実は2018年に製作した『岡本太郎の沖縄』で描いたのは、久高島のノロ(最高峰の司祭主)で、その時も岡本さんが撮ったノロの写真1枚だけを使いました。写真集の表紙にもなっている有名な写真ですが、そのおばあの顔も、見る側の気持ち次第で笑っているようにも怒られているようにも見えると実感したのです。その経験から、今回も観客が感情移入できると決断しました。


――――この作品は川平慈英さんと志ぃさーさんによる語りの映画でもありますね。特に志ぃさーさんはウシさんの心の声を代弁し、まさに観客に語りかけ、写真のウシさんに命を吹き込んでいました。

山里:玉城ウシさんに関する情報をリサーチしても、外見的なイメージに偏り、いちばん聞きたかったサンマ裁判をどう闘ったのか、どんな思いだったのか、なぜ訴えたのかをリアルに喋れる人が見当たらなかった。いろんな場所で「あと30年早かったらね」と言われました。時間が経ちすぎて証言としていちばん聞きたかったことを追求できないとわかったのです。そんな状況で、どのようにしてウシさんの気持ちを観客に届けるのかは、本当に悩みました。ある時、構成作家の渡邊さんから、「証言が取れないなら、落語はどうだろう。『目黒のサンマ』という面白い話があるんだよ」と言われ、そこでピンと来たのです。目黒のサンマならぬ沖縄のサンマなら観客に刺さるのではないかと。落語だとドキュメンタリーのナレーションより、ずっと人に届く表現になる。志ぃさーさんに語っていただいたのも僕らがリサーチした上での想像に基づくものですが、日本伝統の話芸スタイルに全てを託しました。



■ドキュメンタリーの核になった川平朝清さんと、川平朝伸さんの忘れられない言葉

――――本当に引き込まれる語りでした。山里監督は、学生時代に川平さんの叔父、朝伸さんから3日に渡ってお話を聞かせてもらったことがあったそうですね。

山里:実は僕の叔父、山里将人は医者ですが、映画評論家として名が通っている人で、「アンヤタサ! -戦後・沖縄の映画 1945-1955」という本を出版しています。沖縄の戦後はアーニー・ パイル国際劇場が焼け野原に建ち、その周辺に商業施設が増え、栄えていったのが今の国際通りなんです。沖縄の戦後復興の歴史はとても映画と結びついているので、叔父は実体験をもとに研究し「アンヤタサ!〜」にまとめ、沖縄では今でも書店に並んでいます。僕は叔父の影響を受け、大学時代は自分が映画を撮っていたこともあり、戦後沖縄の映画復興史を卒論のテーマにし、叔父の紹介で川平朝伸さんにインタビューをさせていただきました。 

朝伸さんは、戦後の一時期、米軍統治下で流すことが難しいシーンに墨を入れたり、フィルムを切ったりする映倫のような仕事をされていた方でした。米軍と交渉し、沖縄初のラジオ局を立ち上げ、本編のインタビューに登場いただいた川平さんの父の朝清さんは、そこで沖縄初のアナウンサーとして活動を始めた。ですから、朝伸さんは米軍統治下における沖縄の文化行政や文化的アプローチ(ラジオ、演劇)をコントロールされていたのです。


――――特に印象に残った言葉は?

山里:インタビューで僕が聞きたかったことをお話しすると、「まずは琉球王国から話をしましょう」。結局3日がかりでお話しを伺いました。当時はよくわかっていなかったけれど、今思えば伝えたいことが山ほどあり、知りたいと訪れた学生に対してきちんと伝えたいと思ってくださったのでしょう。実際に僕がテレビ局で仕事をはじめてから、朝伸さんの言葉をとてもよく思い出すのです。

「沖縄は中国世、大和世、アメリカ世、そして日本世と時代に翻弄され、いろいろな権力に振り回されたと思われているが、わたしはそう思っていない。アメリカ人も中国人も、みんなうちなーナイズされていったんだ」と。沖縄は不思議な場所で、アメリカ人や中国人、やまとんちゅも、みんな取り込んでいくのだと一貫しておっしゃっていましたね。


――――なるほど、胸に残る言葉ですね。一方、本作で登場する川平慈英さんの父である朝伸さんの証言が、映画にリアリティーをもたらしていましたね。

山里:朝伸さんのような兄のもとにいた弟の朝清さんはバランス感覚があり、こちらが驚くぐらいに冷静に当時の記憶を語ってくださった。「自治は神話」というキャラウェイ大佐の話も、当時真横で聞いていた方ですから。タイムトラベラーと話をしているような感じですし、『サンマデモクラシー』というドキュメンタリーの核になっていただいているのは朝清さんをはじめ、体験者の生の言葉をいただけたことです。「キャラウェイが耳打ちしたんだよ」なんてお話を聞けるとは思っていませんでしたから。



■沖縄は、民主主義や司法権にいちばん向き合い、いまだに闘い続けている。

――――民主主義とは何かと考えさせる映画ですが、特に裁判権の重要さを痛感しました。最後に下里恵良さんをはじめとする、沖縄の裁判官たちの闘いの描写について、どんな思いで描かれたのか教えてください。

山里:本作は友人のフェイスブックに「亡くなった親父がサンマ裁判の裁判官でした」と書かれていたのを目にしたのがきっかけだったので、最初は裁判官の物語として描こうと動き出した経緯がありました。友人の父、上間さんはとても気骨のあった方だと思います。高等弁務官に逆らうのは不利になるということは明白だけど、おかしいものはおかしいとサンマ裁判で判決を下し、上間さんは裁判官の資格を取り上げられてしまった。そこで裁判官たちがみんなで抗議文を書いたのです。目立たないように、旅館の一室に夜中集まり、文章案を考え、みんなでこっそり回して署名、印鑑をもらい、クビを覚悟で提出した。沖縄の裁判官のみなさんは、沖縄で何十年も裁判官をしていても、復帰したら日本のルールに従うべきだと日本の司法試験を受け直す必要があった。本作の玉城ウシさんに匹敵する主人公でもある下里恵良さんは、そんな裁判官資格を剥奪された人たちのために尽力していました。あらゆる局面で、あらゆる人が復帰前の沖縄で闘っていたし、復帰後も自分たちの権利を守るために闘ったのです。多分、日本のなかで民主主義や司法権にいちばん向き合ってきたのは沖縄だし、民主主義にいちばん近くて、いちばん遠い。いまだに、闘い続けているテーマだと思います。

(江口由美)



<作品情報>

『サンマデモクラシー』

(2021年 日本 99分)

監督:山里孫存

ナビゲーター:うちな~噺家 志ぃさー ナレーション:川平慈英

7月31日(土)〜第七藝術劇場、8月13日(金)~京都シネマ、今秋元町映画館他全国順次公開

公式サイト → http://www.sanmademocracy.com/ 

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