「想定外のことが起きたとき、人間は何を学ぶのかを考えるきっかけにしてほしい」『8時15分 ヒロシマ 父から娘へ』美甘章子さん(エグゼクティブプロデューサー・原作著者)インタビュー
アメリカ在住の美甘章子さんが、1945年8月6日、広島で被爆した父、進示さんの壮絶な体験をつづったノンフィクション小説「8時15分 ヒロシマで生きぬいて許す心」をもとに、自らエグゼクティブプロデューサーとなり映画化。戦争の悲惨さや、父から娘へ引き継がれた平和への想いを体感する『8時15分 ヒロシマ 父から娘へ』が、7月31日(土)より第七藝術劇場、8月13日(金)より京都シネマ、8月14日(土)より神戸アートビレッジセンター他全国順次公開される。
アメリカの俊英、J・R・ヘッフェルフィンガー監督がメガホンをとった本作では、建物疎開の準備中、屋根上で被災し、全身に大火傷を負った進示が一瞬にして焼け野原となった広島市内でどのように生き延びたのか。最後まで息子を励まし続けた父、福一の激励や、希望を与えられたエピソードなどをモノローグと再現ドラマでリアルに綴る。父の思い出の場所を巡り、その思いを受け継ぐ章子さんも出演する他、進示さんご本人のインタビューでその信念に触れることができるのも貴重だ。被災体験を自分ごととして考えることができる作品になっている。
エグゼクティブプロデューサー・原作著者の美甘章子さんに、お話を伺った。
■教育がいろいろな機会を与えてくれる
――――広島ご出身の美甘さんは現在、アメリカで活動されていますが、そのきっかけは?
美甘:私の父は戦時中、敵国語を学ぶことを禁じられていたので、英語を学びたかったけれど、学校にすら行けませんでした。だから「教育がいろいろな機会を与えてくれる」と、私たちには学ぶ環境を与え、小さい頃から「英語をしっかり勉強し、外国の文化を学んで、違う立場の人たちも手を取り合え、橋渡しができるような人間になってほしい」と常々語っていました。私は広島大学大学院で臨床行動科学を学んでいたのですが、当時日本ではまだ研究が主体でした。臨床心理学の実践を学びたかったので、世界トップレベルのアメリカに留学し、今に至っています。
――――本作は美甘さんが執筆した原作が元になっていますが、そのきっかけや英語で書こうと思われた理由は?
美甘:父は小さい頃から自分の被爆体験やその頃の祖父についてポツポツと語っていたので、私は10歳の頃からいつかは本にしたいと思っていたのです。ただ私自身のことが忙しくなり、大学院の博士論文でも自分の家族やルーツをテーマに書くケースが多い中、私はとにかく臨床の見識を深めることに重きを置いていました。当時は自分が80歳ぐらいになれば人の心に届くようなものが書けるのではないかと、その時期を待っていたのです。
ところが2010年にフランスの国際経営大学院(INSEAD)でファミリービジネスのケーススタディをプレゼンする機会があり、家族の話をするのに被爆体験を避けて通ることはできなくなったのです。15分ぐらいのプレゼンを終えた後に周りを見ると、30カ国から参加した30〜70代のエグゼクティブの方々全員の表情が凍りついて涙していたのです。参加者の方から「広島や長崎のことは知っているけれど、あのキノコ雲の下で、どういう思いをして生き残ったのかという生存者の話を聞いたことはないし、あなたのお父さんの生き方を他の人にも伝えたいけれど、その術がないので、ぜひ本を書いてほしい」と言われ、本を書く決心をしました。
ただ英語か日本語かは決めていなかったので、父に尋ねてみると、「絶対に英語で書いてくれ」。でも、本のことがテレビで取り上げられ、知人や友人から電話がかかってきたと父から知らせがあったとき「日本語版はいつ書くんや?」と促されました。1冊の本を出版するのは本当に大変なのですが、2013年夏に英語版を発売し、その年の暮れまでには日本語版を書き上げ、2014年8月に日本語版を出版しました。
■両親ともに被爆者なのは特別な状況だと気づき「なんらかの形で記録に残したい」
――――本作では90年代に取材したインタビューテープや、2013年のインタビュー映像が登場しますね。
美甘:両親は二十歳前で被爆していますが、その下の世代は学童疎開していましたし、生き残った世代で当時幼児だった人は当時のことを詳しく覚えている人が少ない。父は爆心地から1200メートルの屋根の上で、母は720メートルのレンガのビルの屋内で被爆し、二人とも大怪我をして何ヶ月も動けなかった。そういう二人が結ばれ、私たち姉妹が生まれたことがいかに低い確率なのか。それを大人になるにつれ実感したので、なんらかの形で記録に残したいと思い、アメリカに滞在してからも帰国するたびに「ちょっと、お父さん。話を聞かせて」と録音、録画をし続けていました。
私の息子は映像や写真に興味があり、学生時代に少し仕事もしていたのですが、彼と娘を連れて広島に帰った2013年に、今のうちに祖父(進示さん)を撮影しておこうと言い出したので、近くのお寺を借りて、私がインタビュアーになって、息子が撮影のセッティングをし、はじめてきちんした形で撮影、編集したのです。今回の映画で使っている87歳の父の映像はその時のものです。
――――アメリカで特に第二次世界大戦を体験した世代は、原爆投下を肯定している人も多いのではないかと思いますが、実際アメリカに住む中で感じることは?
美甘:父からは「戦争ではどの国もひどいことをしていたし、日本も例外ではない。アメリカが悪いのではなく戦争が悪いのであって、立場の違う人たちのことを理解しようとしない、もしくは自分の利益追及に走ってしまう人間の弱さが戦争につながる。どちらが悪いという考え方は全く意味がない」と度々説かれ、橋渡しをする人間になるようにと育てられました。
実際、私が世界中を旅する中で出身地を聞かれて「広島」というと、アメリカ人だけは一瞬のたじろぎがあるんです。中には「自分の国が原爆を使った唯一の国だというのが悲しくて仕方がない」というおじいさんや、一人目の子どもの出産間近で嬉しくて仕方がないはずなのに原爆投下のニュースを聞き、翌日に出産したときに喜べないぐらいの衝撃を受けたというおばあさんもいらっしゃいました。人間性に目を向ける方もいらっしゃる一方、大多数は原爆は日本の自業自得で、原爆を落としてあげたから日本人の命を救ってあげたし、アメリカは戦後も民主主義の国として守ってあげたのに感謝の気持ちが足りないと考えておられるようですね。
――――アメリカのスタッフはどのように集めたのですか?
美甘:実は本の出版時にハリウッドから映画化の声がかかり、脚本もでき、現在進行中なので、映画自体はまだできていませんが、映画製作には携わり、経験ができていました。そもそも、私は日本人の話ではあるけれどグローバルに訴求する映像を作りたかったので、アメリカ人の若い人たちが原爆を見たらどう思うかという若い感性を映画に入れたいと思っていました。若手の人は先入観が少ないし、やはり若い人に観ていただきたい作品ですから、ニューヨークの映画製作陣に声をかけていきました。心を一つにし、愛情あふれる素晴らしいチームになりましたね。
――――美甘さんご自身も出演され、過去と現代をつなぐ役目を果たしておられました。国連に寄贈した祖父の遺品のエピソードとその時の父、進示さんの言葉もこの映画にとって非常に重要でしたね。
美甘:事件の第一発見者となった私は激怒し、父も最初はさすがに落胆していたのですが、「怒りで盲目になってはいけない」と私をさとし、結局は思いがけず恵となる結果につながりました。この事件の詳細は、是非映画で観ていただきたいと思います。祖父福一の教えを父が受け、それを私が受け継いだわけですが、福一は西日本一と呼ばれていた広島の写真館に勤めていた写真家で最盛期は大勢の弟子を抱えていたそうです。戦時下で廃業せざるを得なくなり、父や叔父を学校に行かせることはできなかった。でも、その芸術系の血は世代を超えて私の息子(進示のインタビュー撮影)に受け継がれている気がしますね。福一は相当豪快な人だったそうですが、父はコツコツタイプで真逆だったそうです。
――――確かに、映画でも被爆し、大怪我を負っていたにも関わらず、福一は息子の進示を激励し、彼の命をつないでいました。
美甘:福一を演じたのは大阪出身のエディ・大野・トオルさんで、現在はニューヨークで舞台を中心に活躍されている俳優です。昨年の広島限定上映には大阪時代の俳優仲間の方々がわざわざ観に来てくださいました。
■リアルに描写することで、それでも諦めない、恨まない、感謝の心を共に考える
――――本作の特徴と言えるのは、被爆後の広島や進示さんをはじめとする重症被爆者が過ごした日々を実にリアルに描き出していることです。日本でも原爆投下後の広島を描いた作品は数あれど、ここまで生々しい描写をした作品はなかなかありません。
美甘:一番伝えたいのは悲惨さよりも、逆境をどのように乗り越えるか、また赦す心であるわけですが、それがどれほど深いものかを表現するために、映像で見せることのできるラインをクリアしながらも、肌が見えているところは火傷の様子をリアルに描きました。その状況をわかっていただくことで、それでも諦めない、恨まない、感謝の心を見つけるとはどういうことなのかを一緒に考えていただきたいと思っています。
――――進示さんが生死をさまよう状況下で、見ず知らずの女性が座布団を持って来てくれ、生きる力が蘇ったというエピソードは、絶望の中に灯る希望の光のように感じられました。
美甘:父は家族に一目会いたいという気持ちがあったから頑張れたと語っていましたが、当時は小学校の床の上にころがされ、全身火傷より痛かったのが床ずれで、とにかく体を動かすこともできなかった。負傷者の世話をしていた近所の女性がその様子を見かねて、自宅から座布団を持って来てあげると言ってくれたそうですが、日が暮れても持ってくる気配はない。そこで父は重傷者の自分がその女性に弄ばされたと思い、憎しみを感じていた。でもその日の夜中にその女性が自宅で病人の世話をしたため、来るのが遅れたことを詫び、2枚の座布団を持ってきてくれたのです。父は、物のない時代に利他の気持ちで親切にしてくれた女性を疑ってしまった自分の浅はかさを深く反省したといいます。その後その女性にお礼を言いたくても、その方のお名前がわからなかったので、父は小屋浦小学校のある広島県安芸郡坂町に学校教育に役立てていただくように原爆60周年の2005年、100万円の寄付をしました。そのお金で学校の蔵書を購入して『みかも文庫』と名付けられています。
――――日本でもやはり若い人に見ていただきたいという気持ちが強いですか?
美甘:そうですね。広島でも高校生は「原爆の話は私にとってフランス革命と同じ」と歴史上の覚えておくべき出来事と同列に捉えている人もいますし、外国でもまだまだ実情を知らない人が多いですから、若い人や、若い人と接する機会のある大人の方にも観ていただきたいですね。若い人が観てどう思うか。それを若い人に伝えるにはどういう感性が必要かを考えながら観ていただきたい。他人事ではなく、自分や家族が窮地に追い込まれた時、自分だったらどうするか。自分も勇気を持って挑戦できるというような感情体験をしていただきたいですね。
■見えない恐怖を私たちのこととして考える
――――コロナの脅威に見舞われている今、なおのこと響く作品になりました。
美甘:原爆の放射能とコロナウイルスには類似点があります。一つには両方とも見えない脅威です。県外の人は来ないでと排他的になってしまうこともあれば、先ほどの座布団のように他人のためにと動く人もいる。人間のあり方が二分されてしまうんですね。「よそ者は来るな」という言い方と、「みんなが動かないようにしましょう」と言うのとでは違いますよね。原爆後も、広島や長崎の人は他地域の人から差別を受けましたが、人間の防衛本能とはいえ、それでは解決しません。もっと私たちのこととして考えていかなければいけません。
もう一つは誰も自分たちが生きている中で起きるとは想像もしなかった出来事だということ。想定外のことが起こったときに、人間は何から学ぶのか。それを考えるきっかけになってほしいですね。
(江口由美)
<作品情報>
『8時15分 ヒロシマ 父から娘へ』
(2021年 日本 51分)
監督:J・R・ヘッフェルフィンガー
出演:田中壮太郎、ジョナサン・タニガキ、エディ・大野・トオル、美甘進示、美甘章子、
ユーリ・チョウ、ニニ・レ・フュイン、アーサー・アクシス
7月31日(土)〜第七藝術劇場、8月13日(金)~京都シネマ、8月14日(土)~神戸アートビレッジセンター他全国順次公開
8月1日(日)12:45の回上映後、美甘章子さん(エグゼクティブプロデューサー・原作著者)の舞台挨拶あり
公式サイト → https://815hiroshima-movie.com/
(C) 815 Documentary, LLC
0コメント