受け入れたくなかった自分のルーツに向き合う。 横浜中華街の歴史と華僑の生き様に迫ったドキュメンタリー『華のスミカ』林隆太監督インタビュー



   華僑四世の林隆太監督が、自身のファミリーヒストリーを辿りながら、横浜中華街の歴史と華僑の生き様に迫るドキュメンタリー映画『華のスミカ』。門真国際映画祭2021ドキュメンタリー部門で見事、最優秀作品賞を受賞した同作が、11月13日(土)より元町映画館、シネ・ヌーヴォ、11月19日(金)より京都みなみ会館他全国順次公開される。


  中学時代に初めて自身のルーツを知ったという林監督が、横浜⼭⼿中華学校に通っていたころの父の写真に端を発し、華僑コミュニティの中にも二つの中国があったこと、その闘争から共生に至る歴史を紐解いていく。多文化共生と呼ばれながらも、日本ではあまり知られていない華僑コミュニティの歴史や、華僑の祖国や日本に対する想いなど、林監督自身が聞き手になりながら解き明かしていく貴重なドキュメンタリーだ。

   本作の林隆太監督にお話を伺った。




―――日本で苦労を重ねてこられた祖父母世代の方たちへ、非常に丁寧に取材を重ねておられ、林監督の優しさが観ていて伝わってきました。

林:上の世代の方の話を伺うというのは、僕の後悔から始まりました。僕は家族のなかの中国をずっと避けてきたし、受け入れたくなかった。そのうち、祖母が認知症を患い、昔のことを聞けなくなってしまったのです。祖母と同世代の方はみなさんご高齢でいつまで話を伺えるのかわからない状況です。日本人や華僑を問わず、戦争を体験し、一番苦労してきた世代の方に今お話を聞かないと、絶対に後悔すると思った。だから祖母と同年代の皆さんと繋がりを持ちたい、お話を聞きたいという気持ちが強かったですね。



■ルーツを知った中学時代は、完璧な日本人だと思いたかった

―――中学時代に初めて自分に中国人の血が流れていることを知ったと映画で語っておられましたね。

林:外国人やハーフの人が日本で暮らすのは大変だということを取り上げたテレビのバラエティー番組を見て、母に話をふったとき、「あんたは、どうなの?」とさらりと言われ、一瞬よくわからなかった。そこで母に「お父さん、中国人じゃない」と言われて、すぐに信じられなかったんです。母にすれば知らなかったの?というぐらいで、逆に驚かれました。当時、自分は完璧な日本人だと思いたかったし、今まで両親が特に言及することもなかったので、父にそのことについて聞くことがはばかられる感覚がありました。今から思えば、父はよく中華料理を作ったり、中華街で買ってきた中国茶を飲んでいたのですが、当時は純粋に、そういうものが好きなんだなと思っていたんです。


―――ちなみに、映像に進んだきっかけは?

林:高校卒業後、神奈川大学外国語学部に1年在籍しましたが、高校時代から海外を目指していたので、中退してアメリカへ渡りました。ジャーナリズムを勉強するのが目的で、商業写真や映像の授業をとったのです。写真と映像を両方学ぶことで、映像の方が合っていて楽しそうという感覚がありました。本格的に映像を目指そうと思ったのは滞在して3年半ぐらい経ったころですが、大学で映画を学ぶには滞在費も含めて年間400万円もかかると分かり、それなら日本映画学校(現日本映画大学)に3年間通えると思って、帰国することに決めました。



■アメリカ滞在時代、自身のルーツを大事にする友人たちとの出会い

―――日本では、日常生活で自身のルーツについて話すことはあまりないと思いますが、アメリカではむしろ最初に自分のルーツを語るのではないですか?

林:台湾系や中国系アメリカ人の友達ができたときは、みんな自ずと「父は中国人なんだ」とルーツについて話してくれ、それを語り合うことでお互いの距離が結構縮まるし、「マイピープル(仲間)だね」と言ってくれるんです。アメリカに行くまで、僕は家族の中の中国を友人たちの前で極力口にすることは避け、隠していました。嫌われたり、揶揄されたりする可能性もあると考え不安だったのです。でも、彼らのような仲間もでき、中国に対していいイメージを持っていなかったけれど、個人個人はみないい人で仲良くなれた。自分の祖先がどのようにアメリカにやってきたかを語れる人や、自身のルーツを大事にしている人が多いのを目の当たりにし安心感を抱けたし、僕もどこかで自分のルーツをきちんと調べなければと、アメリカに滞在して1年ぐらい経った20歳のころには思っていました。



■映像を学び始めた頃からできた横浜中華街との関係

―――プロデューサー・撮影・編集の直井佑樹さんは日本映画学校の同級生だそうですが、在学時から林さんと共に映像制作をしていたのですか?

直井:学校の最初の授業が、写真と音を使ったフィールドワークでした。20名ほどの同級生が2チームに分かれ、林さんが中華街でやりたいと提案したことから、現地で有名なお粥屋さんをフューチャーしました。中華街と関係ができたのはそこからですね。

林:1年のときに、お粥屋さんと大陸系の横浜⼭⼿中華学校や、中華民国時代に日本に移ってきた華僑2世の方の戦後の話を聞かせていただいたのが、当時の調査内容でしたね。

直井:当時の企画書を探して見ると、『華のスミカ』の構成内容とほぼ一緒だったんです。できた作品は違うけれど、世代間の意識の違いや学校のことなど、大まかな骨組みは全然変わっていなかったですね。


―――トータルでどれぐらいリサーチを続けていることになりますか?

林:日本映画学校に入学したのが2007年なので13年間は中華街や華僑に関することを調べていますね。僕は、アメリカにいたころから、チャンスがあれば華僑の企画をやりたいと思っていました。ありがたいことに入学早々にそのチャンスは訪れましたし、卒業制作もドキュメンタリーを撮ることができました。


―――卒業制作は、本作のパイロット版みたいなものだったのですか?

林:福建省の親戚で、日本での出稼ぎを希望している当時18歳の女性がおり、伯⽗がそれに協力することになったのです。ただ、ニューカマーの新華僑と日本で生まれ育った伯⽗のような老華僑とは価値観の違いが大きかった、伯⽗は彼女が日本で働くことで中国の家族を助けることができ、故郷に錦を飾ることができると考えていた。だから大学に行き、日本の企業で働いてほしかったのです。でも彼女はもともと勉強が好きではないし、家が貧しいので来日前もアルバイトをしていた。だから日本でも伯⽗の思いどおりにはできず、辛くなってきてしまい、急に住む場所を変えたり、日本人と結婚すると言い出したり…。日本の都会的な暮らしに憧れ、純粋に遊ぶのが楽しいと言っていました。そんな価値観が違う華僑の二人を撮った作品でした。


―――施設で暮らす認知症の祖母の面倒を監督がしているシーンもありましたが、それらと同時並行で撮影を進めていたのですか?

林:もともとは林家のルーツを探る方向性でリサーチや撮影をはじめていたんです。

直井:ただそのリサーチがうまくいかず、林さんの祖母を軸にした林・リン家のファミリーヒストリーを掘り下げようとしましたが、調査しきれないところもあり映画として成立できない可能性があると感じていた時に、例の写真を見つけ、写真から新たな方向性が探れるのではと思ったのです。



■台湾系と大陸系の間でピリピリしていた父の学生時代

―――なるほど、お父さんの学校時代の写真が大きく映画の方向性を決めたということですね。今まで聞けなかったことを、父に直接聞いて見る機会になるのではないかと。

林:父の写真を見つけた時には、昔のように避けるのではなく、もっと知りたいという興味の方が強かったです。他にも父の中華学校の卒業アルバムを探して見ていたので、その写真もインパクトがありました。また記事の中に「台湾系と大陸系」という書き方がされ、しかも衝突を恐れて警官が立っていたというので、父の学生時代はそんなにピリピリしていたのかと思ったのです。物心ついた時から日本人として育てられ日本社会にどっぷり浸かっていた僕とは全く異なる環境で、父たちが暮らしていたことを実感しました。


―――この映画で、1952年に横浜中華学校で起きた「学校事件」のことを初めて知りました。

林:中華街のことをずっと調べていたので、言葉自体はすでに知っていたのですが、映画として調べる意味があると思ったのは、祖母や父が中国人として暮らしてきた時代がちょうど学校事件の時代にあたるからです。祖母は二世で、夫を34歳で亡くしたため、横浜の妹夫婦を頼って、京都から出稼ぎに来たのも50年代でした。当時、女性がつける仕事も少なく稼ぎ口が安定しなかったことや、女手ひとつで子ども3人を養う余裕がなかったので、父らは神戸関帝廟に預けられ、後に神戸の親戚の家に引き取られています。父たちが祖母と再びともに生活を始めるのは学校事件後の横浜で既に横浜中華街の華僑は分離状態でした。僕が生まれたのは横浜です。父たち家族が横浜に来てからのことは何も知りませんでしたし、とにかくどのように暮らしていたのか知りたいという思いが強かったです。


―――本作では横浜中華街の誕生にまで遡り、その歴史もわかりやすく紹介しています。移住した地でコミュニティを作り、母国の文化や教育を継承していくというのは日本から海外への移民において行われていることが様々なドキュメンタリー映画でも紹介されていますが、日本に移り住んだ華僑のコミュニティやその学校での様子を映し出した作品は稀有です。

林:僕自身も横浜中華街で建国記念日が2つ(中国と台湾)あることをはじめ、全てが新鮮でした。ずっと中国関連のことを自分の中でシャットアウトしてきましたから。実は成人式の日、アメリカから帰国し、初めて父とふたりでお酒を飲みました。腹を割っていろいろな話をし、父は中国人としてずっと生き、就活一つをとっても苦労があった中、結婚の時も国籍が足枷にもなってしまったことで自分の存在について改めて悩み、葛藤していたのだと感じました。僕は生まれてから何不自由なく日本社会の中で暮らしてこられましたが、父には苦労があったことは何となく想像できたのです。

 自分自身について言えば、漠然と中国人のハーフだというのは認めていたけど、中国のことも華僑のことも父方の出自のことも何も知らないハーフで、僕は常に日本人の足一本しかなく、二本目の中国人の足がない状態で立つことも歩くこともちゃんとできていないような感覚でした。そういう意味で、当時の僕のアイデンティティは、フワフワ、フラフラしていたと思います。



■移民の人や海外ルーツの人たちが生活しやすい環境であってほしい。

―――監督の伯⽗、李学銀(リ・ガクギン)さんは、共産主義に共感はするけれど、毛沢東を崇拝するのは違うと言い切り、我々が抱く毛沢東世代の中国人のステレオタイプとは違う、独自の考え方をお持ちですね

林:伯⽗が日本の中で中国にいるのと全く同じことをするのはおかしいと言っていましたが、僕もそういう考えはあります。ただ中華学校と日本の学校が全く同じ教育をするべきかといえば、それは違う。中華学校というと中国人学校のイメージを持つ人がいるかもしれませんが、中国人てはなく華僑の学校・華僑学校です。移民の子孫たちが、自分たちのルーツの歴史や言語、文化などを学ぶのは決して悪いことではないし、日本の学校だけでなく、学ぶ選択肢は残した方が僕は良いと考えています。僕みたいにルーツのことを後から学んだ人もたくさんいますし、お父さんやお爺ちゃんお婆ちゃんが話していた言葉を話せれば良かったと後々思う人たちも沢山います。

それと同時に、移民の人や海外ルーツの人たちが生活しやすい環境であってほしい。日本の教育だけになるとか、日本人しか暮らせないような居心地の悪さがあるのは、同じ日本人としてシンプルに格好悪いし、そうなってほしくないのです。

日本で暮らしていたときは、日本人の方がメリットがあると感じ、そう思われたいという気持ちが強かった。でもアメリカだと日本がどこにあるかわからない人もたくさんいるし、彼らから見れば、日本人はただのアジア人でしかないんです。自分と同じ様な人たちが沢山いる、一人ぼっちじゃないんだと思えたからこそ、僕自身も若い頃はアメリカはとても居心地が良かった。日本だと言いたいことが言えない環境があると感じます。


―――海外に出ることで、大事な気づきを得ることができましたね。

林:華僑は日本でうまくやっていると言っても、やはり風評被害もありますし、そのような行為に至る人は華僑のことを知らない人だと思っています。まだまだ認識されていないと感じるので、まずは知ってもらいたいですね。



■華僑は華僑でしかない。

―――何も知らなかったとこから、時間をかけて本作を作り上げた今、日本の華僑はどんなコミュニティだと思いますか?

林:僕が会ってきた横浜の華僑の人は、日本生まれ日本育ちだとしても、世代によっては外国人扱いをされてきた人もいます。1世は日本に新天地を求めてきたのですが、第二次世界大戦中は日本で敵国人として過ごさざるを得ず、戦前戦後問わず職業の制限はありました。父の世代も日本社会で就職するのは容易ではなかったと聞いています。

父が中国系だと知った時には、周りの友人に言えないというアイデンティティークライシスもありました。だから僕の代になっても常に宙ぶらりんで、どこかに不安を抱えている部分があります。

日本生まれだけど外国人扱いされたり、中国に帰っても文革の時代にはスパイ扱いされたことがあったという証言も多く聞きましたし、映画学校1年の時の取材で2世の方が「我々華僑は中国にも帰るところがない」と言っておられた言葉が今でも胸に残っています。だから、中国人でも日本人でもなく、華僑は華僑でしかないと僕は捉えています。


―――華僑の中でも大陸系と台湾系の確執が長年あった中、それを乗り越えてきた歴史もしっかり描かれました。

林:横浜中華街で中立的な立場である華僑歴史研究家のみなさんは、この作品を街のアーカイヴとして残したり、より多くの人に観てもらいたいとおっしゃっていただくのですが、それぐらい今まで資料や映像がなかったということですね。


■華僑は、この国で一生懸命、上を向いて生きようとしている仲間。

―――ありがとうございました。最後に、本作を通じて特に伝えたかったことは?

林:横浜⼭⼿中華学校の教師だった費龍禄(フェイ・ロンルゥ)さんや、元横浜福建同郷会会⻑の魏倫慶(ウェイ・ルンチン)さんのように、イデオロギーや立場の違いがあれど、紆余曲折の人生を歩んでこられた華僑の方が、みなさんと同じように日本で暮らしていることを知ってもらいたいですね。

 華僑や在日と呼ばれる人は、日本社会ではマイノリティーかもしれませんが、どこかうつむき気味な感じで描かれている作品にはシンパシーを感じません。ちなみに、僕は不幸だと思ったことはなく、どちらかと言うと幸せな人生を歩んできたと思います。両親ともに日本ルーツの日本人も中国ルーツを持ち日本に生活の基盤を置く華僑も、みんな同じ日本住人、日本人です。この国でとにかく一生懸命、上を向いて生きようとしている仲間なんです。それが伝わればと思います。

(江口由美)


『華のスミカ』(2020年 日本 98分)

監督・企画:林隆太

プロデューサー・撮影・編集:直井佑樹

11月13日(土)より元町映画館、シネ・ヌーヴォ、11月19日(金)より京都みなみ会館他全国順次公開

11月13日(土)に元町映画館、シネ・ヌーヴォにて林隆太監督、直井佑樹プロデューサー舞台挨拶予定

公式サイト⇒https://www.hananosumika.com/  

(C)記録映画「華僑」製作委員会