枯葉剤被害で亡くなった写真家でパートナーのグレッグ・デイビスさんと思いを重ねて。ベトナム枯れ葉剤被害を描く第3作『失われた時の中で』坂田雅子監督インタビュー


 『花はどこへいった』(2007)、『沈黙の春を生きて』(2011)に続く、坂田雅子監督のベトナム枯れ葉剤被害をテーマにしたドキュメンタリー映画の第3作となる『失われた時の中で』が、9月3日(土)より第七藝術劇場、9月16日(金)より京都シネマ、他全国順次公開される。

  18歳でベトナム戦争に従軍、その後京都滞在時に坂田監督と出会い生涯のパートナーとなった写真家のグレッグ・デイビスさんの枯葉剤被害が原因となった突然の死も含め、デイビスさんの生前のエピソードや彼が撮った写真も交えながら、どんな気持ちでベトナム枯葉剤被害に向き合うようになったのかも語られ、セルフドキュメンタリーの趣もある。公的補償が望めない中、障害を持った子どもは大人になり、老いた親たちがその日をなんとか生きている現状や、一方、成人後に自立する被害者たちにもカメラを向け、被害者たちや支援者たちの今を丁寧に取材。ベトナム戦争から半世紀経っても決して忘れてはならない問題を改めて考えるきっかけとなる作品だ。

本作の坂田雅子監督に、お話を伺った。



――――ベトナム枯葉剤被害に対し、アメリカの帰還兵には症状に応じて補償が支払われているそうですが、ベトナム市民に対しての補償は一切されていないのでしょうか?

坂田:ベトナム戦争終結後、40年ぐらい経ってからようやく、ベトナムにあった米軍基地の除染については責任を認め、基地の一部で除染を行いました。ビエンホア空軍基地枯葉剤貯蔵施設跡でもこれから除染が始まりますが、作業完了には10年かかるそうです。ただ、人的被害については枯葉剤が原因だと証明できないとして補償を認めていません。製造した企業(モンサントなど)は国に頼まれたから製造したと責任を認めない。ずるいですね。




■人は死んでも違う形で生き続ける。再編集がグレッグさんへの鎮魂歌へ

――――グレッグさんのエピソードから始まり、初めて坂田監督のドキュメンタリーをご覧になる方でもなぜ監督がこの問題を取材し続けておられるかがわかる、セルフドキュメンタリー的側面があります。本作でのグレッグさんの役割について教えてください。

坂田:私は客観的なドキュメンタリーを作りたいと一作目から共通して思っているのですが、もっとパーソナルな話にしてはどうかと助言をもらうことがありました。今回も取材する中で枯葉剤被害を受け、辛い思いをされてきた人たちにたくさん出会いましたから、自分なりに編集し、見てもらったのですが、「これでは単なるレポート」と厳しい批判をもらい、半ば諦めかけていました。そこで編集の大重裕二さんが、もっとグレッグの言葉や写真を入れて組み直してはどうかと提案してくださった。

私自身、自分の話になるのは躊躇してしまうのですが、第三者の編集の方が組み込んでくれることで、作品がより説得力のあるものになりました。グレッグが生前取り組んできたことが活かされ、人は死んでも違う形で生き続けられるのだと、本作を作ることでつくづく感じたのです。彼に対する鎮魂歌ができたという気持ちで、その意味では満足しています。


――――継続して取材をする中で、出会った頃より被害者自身も彼らを介護する親たちも年齢を重ね、老いていく切実な状況が映し出されています。

坂田:グレッグが急死し、私自身もこの20年は辛かった。けれど、映画づくりをしながら少しずつ癒されていきました。一方、ベトナムで枯葉剤被害を受けて生まれてきた我が子を介護し続ける彼女たちは30年近く、辛い思いを積み重ねてきました。子どもたちが亡くなれば、むしろより辛くなるかも知れません。でもそんな辛い中でも鶏を育て、庭で野菜を作りながら生き続けておられます。どれだけ辛いことがあっても、日々生きていかなくてはいけない。それが現実です。



■枯葉剤の影響を受けて生まれた子どもたちがサポートを受けられる「平和村」が大きな存在に

――――一方で、枯葉剤被害から身体に障害を抱えていても、独立して生活し、仕事をして生計を立てている若者たちの姿に、希望を感じました。

坂田:彼らを見ていると、障害があることを感じさせません。彼らがそれだけ明るく生きていられるのは、ツーヅー病院にある枯葉剤の影響を受けて生まれてきた子どもたちが暮らし、サポートを受けることができる平和村の存在が大きいです。みんなの愛情に包まれて育ってきたので、義足を外すことや、自分の障害をあからさまにすることに躊躇がないのです。私たちも障害者に対してかわいそうだとか、何かをしてあげなくてはと思う前に自分の中にある垣根、隔たりを取らなければいけない。平和村に行くと、奇形児もたくさんいるので最初は驚くのですが、何度も会ううちにだんだん心の壁が取れてきて、ひとりの子どもとしてシンプルに向き合えるようになります。


――――障害を持って生まれた子どもたちの拠り所である平和村の成り立ちについて教えてください。

坂田:1975年ごろ、ツーヅー病院の産婦人科医グエン・ティ・ゴック・フォンさんが、生まれてくる子どもたちの異常が枯葉剤のせいであることに気づき、そこから発信しはじめ、1980年代、ドイツの慈善団体の支援により誕生した場所です。平和村の看護師さんや先生方のケアの仕方が本当に行き届いているので、差別の目にさらされることなく、子どもたちは安心して自分のことも他人のことも受け入れることができるのです。



■枯葉剤問題は他人事ではない

――――原発問題や戦争と、次々に世界各地で問題が起こる中、いまだに多くの方が苦しんでいる枯葉剤被害のことを作品として世に問い続けることは、本当に大事ですね。

坂田:普段生活するのに、枯葉剤のことを別に知らなくてもいいわけです。でも私はたまたま知ることとなり、映画にして見ていただくことができるのは素晴らしいことですし、見てくださり「こんなこと知らなかった」とおっしゃる方も本当に多いです。

 フォトジャーナリストの中村梧郎さんと対談した時に、日本でかつて山林の下草を枯らせるために散布していた枯葉剤が1971年に危険だとわかり、少なくとも54箇所の山々に廃棄されていることがわかったという話が出ました。きちんとした処理なく埋められているので、雨が降ると溶け出して川や海に流れ出す恐れがあると問題になっているのです。ヨーロッパでは禁止されている除草剤も、日本ではスーパーでどんどん売られています。枯葉剤ほどの毒性はなくても、成分は同じですから、私たちの生活と全然関係のない話ではないことを認識してほしいですね。


――――子どもを産む女性たちが、中絶を余儀なくされるケースも多く、心身ともに辛い思いをさせられていることを痛感します。

坂田:意識して女性を取材したわけではありませんが、見返してみると女性の話、母親の話になっていると思いました。やはり命というのは、より女性が強く関わっている問題ですから、女性たちの被害は甚大です。

 


■地道な日常をうつす写真が何を意味するのか、落ち着いて考えてほしい

――――映画でもグレッグさんの手記の一節「戦争のアクションは誰にだって撮れる。本当に難しいのは戦争に至るまでと、その後の人々の生活を捉えることだ。その中に本当に意味のあることがあるんだ」が引用されていましたが、坂田監督の枯葉剤被害を取材した3作もまさにこの言葉があてはまります。

坂田:グレッグの友人にも戦場カメラマンがいましたが、彼らは戦争が起きるとアドレナリンが出て現地に飛び立ち、その写真をメディアはセンセーショナルに取り上げます。でもグレッグは注目されるのはそのときだけだと、いつも言っていましたね。私自身は当時その言葉にあまり注意を払っていなかったけれど、今にして思えば、よりその言葉が響いてくる感じがしますね。情報を受け取る側も衝撃の強い映像や写真に比べ、名もなき人々の日常を写すような地道な作品にはあまり注目しない。ですから、見る側も落ち着いて、これは何を意味するのかと考える必要があると思います。

 「写真というのは、立ち止まって考える時間をくれる」というグレッグの言葉も今になって、なるほどと思うのです。私はかつて通信社に勤めていたので、写真は商品として扱っていました。でも映像作家という今の立場から見ると、写真はある瞬間を捉えたものですが、その前後には色々なストーリーがあるのです。だからじっくり見ることによって、その背後にあるものが浮かび上がってくる。一方映画は時の流れの中で捉えるので、訴え方が違うと思います。私はカメラマンとして訓練されていないので、その人の背後にどんな考えがあり、どうやって一つのショットに凝縮しようかとは考えず、どんどん目の前にあるものを撮ってしまう。一つ一つの映像にもっと注意を払うべきだと反省しています。



■流れに沿って取り組んできた映像作家としての20年

――――55歳で映画を撮り始めてから20年近くが経ち、映画に対しての向き合い方など、何か変化がありましたか?

坂田:『花はどこへいった』(2007)は、もともと映像作家になろうという気持ちよりは、夫の死に直面して、止むに止まれぬ思いで作ったのですが、それがたまたま公開されて話題になり、自分の悲しみに一つの終止符が打てたと思いました。でもまだまだ枯葉剤の問題で追い続けていかなければならないことがあると気づき、2作目『沈黙の春を生きて』(2011)で帰還兵の子どもたちを題材にした作品を作ったら、そこで福島の原発事故が起きてしまった。枯葉剤も放射能も自然を壊すのは同じではないか、どうしてこんなにたくさんの原発ができてしまったのかという思いで、『わたしの、終わらない旅』(2014)を作りました。その頃すでに日本では原発の再稼働がはじまり、一方でドイツから脱原発のニュースが飛び込んでくると、なぜドイツではで脱原発がきて、日本はできないのかと疑問が湧き『モルゲン、明日』(2018)ができたのです。そのような感じで、自然に次の作品へつながって行ったわけです。

 今回も3作目をと思っていたわけではなかったのです。「希望の種」という奨学金をはじめ、10年間で1000万円以上の募金が集まり、100人以上の子どもたちの教育を支援することができたのですが、枯葉剤問題の学会などでベトナムに招待されるたびに、奨学生の子どもたちのところに連れて行ってくれるのです。田舎の本当に貧しい地域ですが、ほんのわずかな奨学金でも大歓迎してくれ、現地で私も大きく心を動かされました。また、ベトナム全土に今でも多くの枯葉剤被害者がいるとわかったので、次第にカメラを持参して撮影するようになり、撮り溜めたことから、3作目を作るべきだという気持ちになりました。ですから、何かが変わったというより、流れに沿ってきたという感じですね。


――――ちなみに、グレッグさんとはどのような形で出会われたのですか?

坂田:京都で出会った頃は、大学に入ったばかりでしたが学生運動のため授業もなく、すごく閉塞した気分だったんです。そこにオートバイに乗って颯爽と、『イージー・ライダー』のピーター・フォンダみたいに自由の風を運んできてくれた。「かっこいい!」と思って(笑)下宿でやることがなかった私に、彼はいつもやることを提案してくれたんです。

私は人生について懐疑的で、何のために生きているのかとか、人生って意味がないと言うと、彼は「人生には意味がないかもしれないけれど、こんなに面白いことがたくさんあるじゃないか!」と、すごく前向きで。グレッグは直感的に物事がわかっている人でしたね。



■経済制裁解除前のベトナムの現状を伝え続けたグレッグさん

――――グレッグさんは17歳から3年間、ベトナム戦争に従軍されており、心の傷も深かったのでは?

坂田:戦争が終わってからしばらくの間、ベトナムはすごく閉ざされた国で、特にアメリカ人はなかなか行けなかったのですが、1986年、久しぶりにベトナムの地を訪れてからグレッグは頻繁に通うようになりました。戦場での体験ですごく傷ついていたと思いますが、実際に戦った場所へ行き、あの戦争は何だったのかを考え、その傷を洗い流すような気持ちで行ったのではないかと想像しています。

 1994年、アメリカが戦後ずっとベトナムに対して行なっていた経済制裁をクリントン大統領が解除するまで、ベトナムは非常に貧しい状況に置かれていたのですが、グレッグはその時までにタイム誌などを通じてベトナムの現状を伝え続け、「ジャーナリストとして力になったと思う」とその仕事に誇りを持っていました。アメリカ人のジャーナリストの中では、ベトナム通としていい仕事をしたと思います。


――――ありがとうございました。最後に『失われた時の中で』というタイトルについて教えてください。

坂田:英題の「Long Time Passing」は、ピート・シガーによる有名な反戦歌『花はどこへいった』の歌詞です。邦題の『失われた時の中で』は、枯葉剤被害者や私が、戦争によって失われた時の中でどのように生き、そこから次に何を見出してきたか。失われた時の中で考え、模索してきた結果が何なのかを問いかけたい。そんな気持ちから生まれました。

(江口由美)



<作品情報>

『失われた時の中で』(2022年 日本 60分)

監督・企画・撮影:坂田雅子

9月3日(土)より第七藝術劇場、9月16日(金)より京都シネマ、他全国順次公開

※9月3日(土)12:30の回上映後、坂田雅子監督、9月4日(日)12:00の回上映後、坂田雅子監督、桂良太郎さん(日越大学<ハノイ国家大学>客員研究員)によるトークあり

公式サイト → http://www.masakosakata.com/longtimepassing.html

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