言葉はアイデンティティ。アイヌ語を喋れることが自信につながる。 『Ainu ひと』溝口尚美監督インタビュー


北海道の日高地方・平取町に暮らすアイヌ民族の長老4人の話や、受け継がれているアイヌ文化とその歴史を描く溝口尚美監督の長編ドキュメンタリー『Ainu ひと』が、9月15日(土)から元町映画館(神戸)とシアターセブン(大阪)で1週間限定公開されている。  


アイヌの人々や文化について知る機会が少ない中、本作では自然と共生する暮らしぶりや、和人に文化を封印された過去を経て、歌や踊り・祭り・言語・口承文芸など、後世に民族の文化を伝える様々な試みが記録されている。アイヌ文化継承活動の中心的存在である4人の人生から、彼らの祖先たちが辿ってきた苦難の道のりも見えてくるのだ。  


現在ニューヨークで活動している溝口尚美監督が元町映画館に来館し、自らのキャリアや制作裏話を語ってくれた。



 ■映像の仕事は天職。テレビの仕事を機に、撮られている人が本当に伝えたいことを、伝えることができているかを自問し始めた。

 ――――日本で10年ぐらい映像関係の仕事をされていたそうですが、アメリカに居住の場を移して仕事をしようと決めたきっかけは何だったのですか?

 溝口:1992年から3年間関西の映像製作会社に勤めた後、95年からフリーランスになりました。映像作家の田中幸夫さんのアシスタントとして映像制作に携わったり、田中さんのご紹介で仕事をしたりと、田中さんは私の師匠で、まだ経験が浅かった私に、仕事の門戸を開いてくださいました。ようやくディレクターとして独り立ちできるようになってきた2000年ごろ、景気が低迷し始め、企業からの仕事も減り、映像制作プロダクションも淘汰されるようになってきたので、世の中の流れに沿ってテレビドキュメンタリーの仕事に移行していったのです。


 ――――日本でのテレビの仕事は、反応が大きい分、制約も多そうですね。

 溝口:私は映像の仕事を天職だと思っています。飽きることがないです。テレビは即時性と影響力があるので魅力的でしたが、時間の制約もあるし、数字を取れるような強い表現のシーンを求められたり、(事実そのままではなく)わかりやすくするために、かなりシンプル化して作る事もあって、よくモヤモヤしていました。30歳を過ぎた頃、この場所で映像を作り続けることはできるけれど、何年かしたら、若いディレクターに、使いにくい年上扱いされて、仕事を切られる時期がくるかもしれない。また、撮られている人が本当に伝えたいことを、私は伝えることができているだろうか。当時は、Youtubeもない時代でしたが、撮られている側が自分でカメラを持ち、伝えたいことを発信したらいいのではないかと思い始めたのです。



 ■カメラを使い社会的な取り組みに活用した女性の話に触発され、1年だけのつもりで渡米。 

――――ビデオカメラを持つ暮らしをしていない人は、撮影する習慣もなかったのでは?

 溝口:インドでカースト制度の一番下の階級のダリットと日本の被差別部落の人が交流するビデオを田中さんと一緒に作ったことがあります。その時、外から来た私たちが1週間ほどで撮りたいことをサッと取るのではなく、彼ら自身がカメラを持ったらどうなるのだろうか。自分たちが言いたいことを撮ることにも、映像制作の意義があるのではないかと思い始めました。そんな折、障がい者自身がカメラを持ってビデオを作ったり、また更生を目的に若者にカメラを持たせたりするアメリカでの取り組みについて書かれている本と出会ったのです。70年代にアメリカで初めてソニーのビデオカメラを使って社会的な取り組みに活用した女性のことが書かれており、私もその組織の中に入って、勉強をしたいと思うようになりました。非営利団体にも興味があったので、運営の仕方も学ぼうと、1年だけのつもりで渡米しましたが、今も現地で仕事をしています。  


――――渡米当初から、先住民に対する興味も持っていたのですか? 

溝口:その頃は全然なかったです。先ほどお話ししたインドでは、文盲の人も多いので、ビデオの方が感情も表現できるし、誰でも見て理解できる。ちょっとしたコツを教えて、編集の手助けさえすれば、作品が作れるのではないかと一人で考えていました。日本で「非営利団体を作って、市民の目で制作の活動をしよう」と話していた仲間もいましたが、なかなか前に進みませんでした。また、私はアメリカでは外国人なので非営利団体を作るのもなかなか難しく、ビザの問題もあったので、一時は帰国の段取りまで整えていたのです。その時に、ボリビアで「パチャママのおくりもの」という映画を作った松下俊文さんを通じて、先住民に撮影技術を教えて、一緒にビデオを作るという試みをしている人と知り合いました。その人は南米のコロンビアで既にプロジェクトをスタートさせていて、一緒に非営利団体としてやらないかと誘われたのです。私のやりたかったことと一致したので、帰国するのをやめました。


 ■南米の同僚から日本の先住民族・アイヌについて聞かれ、答えられなかったことがきっかけで、アイヌについて調べはじめる。 

――――まさに運命的な出会いですね。 

溝口:まず、コロンビアのアンデス山脈に行きました。現地に持っていくカメラは新品である必要はないので、入学式で使ったきりお蔵入りしているようなビデオカメラや三脚を募って、それを持参して、現地の人に使い方を教え始めたのです。ある時、一緒に仕事をしていたチリ人、コロンビア人の同僚から、「日本にはアイヌという先住民族がいるんでしょう?どんな生活をしているの?」と聞かれたのです。私は、「いるよ」としか答えられなくて、ビザの切り替えのタイミングで帰国する際にアイヌについて勉強することにしました。それが2008年11月のことです。


 ■お祈りの仕方や縫い物など、アイヌ民族とコロンビアのナサ民族はとても似ている。

 ――――まずは映画でも登場した二風谷アイヌ文化博物館あたりが足がかりとなったのですか?

 溝口:平取町のアイヌ文化博物館にも行きましたが、地元の方と繋がる大きなきっかけはアイヌ語教室でした。見学した帰り際に、「見ない顔だけど、どこから来たの?アイヌのこと、勉強したいの?またおいで」と川奈野一信さんが声をかけてくださったので、正直にアメリカに住んでいるので、二風谷に来る交通費や現地での宿泊、移動費にもお金がかかり簡単ではない事を伝えると、「じゃあ、うちに泊まれ。うちの車を使っていいよ」と言ってくださって。 そのうち、コロンビアでの活動を通じて、コロンビアの先住民族とアイヌの先住民族との共通点がたくさんあることに気づいたのです。例えば「Ainu」はアイヌ語で「ひと」という意味ですが、コロンビアのナサ民族のNASAもナサ語で「ひと」という意味なんです。お祈りの仕方や縫い物などもとてもよく似ていました。ですから、最初は地球の裏側にいるアイヌの人とナサの人がビデオ交流できないかなぁと思っていたのです。


 ――――そのアイデアは実現したのですか?

 溝口:当時コロンビアは内戦状態で、殺人事件も多発していたので、ナサの人たちは、ビデオを使って今すぐにでも伝えたいことがたくさんあり、ナサ語を残していく必要もありました。一方アイヌの人たちはビデオを使って何かを残そうかという喫緊したニーズがさほどなかったのです。


 ――――せっかくのアイデアですが、コロンビアのナサ民族とアイヌの人たちとの温度差がかなりあったのですね。 

溝口:やはり今、日本は平和だということですね。アイヌの人たちも二風谷ダム訴訟をしていた頃はきっとビデオが役立ったと思うのですが、萱野茂さんをはじめとする先人のご活躍で今は落ち着いている感じです。映画を撮ろうと決めた2015年までは、勉強で行った時に、記録程度に撮影するぐらいで、映像を使ってどんなプロジェクトが出来るかなぁと模索している状態でした。



 ■“外からの”視点ではなく、地元の人が遺したいものや、地元の人にしか分からないものを入れたい。 

――――映画化するきっかけは何だったのですか? 

溝口:少しずつ撮っていたものや、撮影していユカラ(ラは小文字)<英雄叙事詩>に、勉強用のカタカナをつけて編集し、役場や博物館などにプレゼントしていたのですが、2015年に 改めてプレゼントしたビデオを見たかどうかお聞きすると、誰も見ていなかったのです。その場で見てもらうと、「素晴らしい!」と喜んでくださり、学芸員の方からその場で、長老たちが元気なうちに、4人の話を記録しておきたいとかねがね思っていたと言われました。それまでの訪問で川奈野一信さんとは人間関係が築けていましたし、他に名前が出た方々も知っている人ばかりだったので、では、私が作りますと宣言したのです。但し、現地の皆さんにも「制作プロセスを共有しながら一緒にやりましょう」と協力をお願いしました。というのも、私の“外からの”視点ではなく、地元の人が遺したいものや、地元の人にしか分からないものを入れたいという思いがありましたから。


 ――――実際に地元の方と企画会議とか、映画化に向けてのアイデア出しなどをされたのですか? 

溝口:現代のアイヌ文化に関するイベントや文化的景観を寄せ集めただけでは、PR映画にはなっても、ドキュメンタリーにはなりません。地元の人から残したいと言われた撮影要素を参考に、私が映像作家としてドキュメンタリーに必要だと考えた要素を加味しながら撮影を行なっていきました。


――――オープニングは鳥や花といったシンプルなものと、それを意味するアイヌ語が添えられ、自然に映画に入っていけて良かったです。アイヌの言葉は本当に独特ですね。

 溝口:映画ではあまり説明っぽくしたくなかったので、あえてカタカナで読み入れていません。実は長い間タイトルが思い浮かばなかったのです。英語圏で公開することも視野に入れながら試行錯誤していた時に、ふと『AINU』が思い浮かんだのです。AINUという言葉が「ひと」という意味であることも、あまり知られていないので、タイトルに起用しました。



 ■アイヌ語を喋れるということは、民族としての自信につながる。

 ――――映画を観ていると、萱野茂さんが先頭となって取り組んできたことが本当に多いのだなと実感します。 

溝口:二風谷という集落は、約8割の人がアイヌの血を引いた方です。だから二風谷に住んでいた萱野れい子さんは、あまり差別は受けていないそうです。一方映画でもご自身が語っていますが、違う地域で育った川奈野一信さんは、学校で差別を受けてきています。一信さんはアイヌ語を喋るといじめられるからと、親がアイヌ語を教えてこなかったのです。お母さんは上手にアイヌ語を喋れる方なのに一信さんは喋れなかった。茂さんが一信さんの母親の聞き取りやアイヌ語の録音をしていた関係で知り合いとなり、一信さんは茂さんに惚れ込んでしまったんです。そこから一信さんはアイヌ語を勉強し始めたそうです。言葉を勉強したことは、アイヌ民族としての自信にもつながったようです。言葉とアイデンティティは非常に深いつながりがあります。



 ■アイヌの名士、萱野茂さんも「自分の文化は自分で守らなければいけない」と痛感していた。 

――――「アイヌから逃げない」という決意を秘めた言葉が非常に印象的でしたが、やはり和人に差別される中、大変な葛藤を経ての言葉だったのですね。 

溝口:萱野茂さんですら、アイヌから逃げていたと語っていたことがあったそうです。茂さんは一時期、生活のために登別のクマ牧場まで出稼ぎに行っていました。当時、和人が二風谷の衣類や民芸品をどんどん買って行ったのだそうです。そして、自分の文化は自分で守らなければいけないと思い、地域の衣類や民芸品を、自分で収集し始めました。妻のれい子さんも、自分でアイヌの衣裳を作るようになりました。 


――――和人に差別を受けるということで、封印されてしまったアイヌの文化を復活させるのは大変ですが、みなさん本当に精力的に取り組まれているのが伝わってきました。 

溝口:皆さん、いつ行っても忙しくて、何かしらイベントがあるんですよ。現町長がアイヌ文化を奨励されている影響もあるかと思いますが、町に活気があるといつも思います。外国の方もたくさん来られますし、アイヌ式結婚式を復活させたり、縁結びの岩がパワースポットになったり、本当に盛り沢山ですよ。  


――――そうかと思えば、ゲートボールに興じているシーンもあって、普通のシニアなんだなとほっこりしましたね。 

溝口:鍋澤さん(先祖供養の時、アイヌ語で祝詞をあげる人)がとても楽しそうでしたし、祈祷もできるアイヌのシニアも、和人のシニアと同じようにゲートボールで楽しんでいるところも見せて、親しみを覚えて欲しいというねらいがありました。 


――――最後に今回取材されて、一番印象的なアイヌの文化は何でしたか? 

溝口:墓地での先祖供養の儀式はなかなか見ることができませんし、外の人間で、しかもカメラを持っているにも関わらず、その場に居させていただけたことは非常に感謝しています。この映画制作を通して知り合った暖かいアイヌの人との絆をいつまでも保ちながら、私ができる事・やりたい事を更に模索していきたいです。



 <作品情報> 

『Ainu ひと』(2018年 アメリカ 81分) 

製作・監督・撮影・編集:溝口尚美 (GARA FILMS) 

協働企画・制作:GARA FILMS, 二風谷アイヌ文化博物館 

2018年9月15日(土)~元町映画館、シアターセブン 

公式サイト⇒http://www.ainuhito.com