「基地の問題は人権の問題」であることを伝え続けたい 『太陽(ティダ)の運命』佐古忠彦監督インタビュー


 「筑紫哲也NEWS23」でキャスターを務め、精力的に沖縄取材に取り組み続けてきた佐古忠彦監督が、瀬長亀次郎以降の沖縄現代史と、その鍵となる二人の知事、大田昌秀さんと翁長雄志さんの人生や沖縄県知事としての苦悩と、県民とともに民主主義を諦めない姿を描く最新作『太陽(ティダ)の運命』。5月3日(土)~第七藝術劇場、5月2日(金)〜京都シネマ、5月10日(土)元町映画館他で全国順次公開されるのを前に、佐古監督に、沖縄現代史を紐解いた本作についてお話を伺った。



■30年の辺野古を巡る国と沖縄の歴史、その鍵となる二人の知事を掘り下げて

━━━まずは、なぜ大田昌秀さん(第4代沖縄知事)と翁長雄志さん(第7代沖縄知事)の二人を描こうとされたのか、教えてください。

佐古:『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』などで、民衆と瀬長亀次郎が一体となって本土復帰にたどり着くまでの姿を描いたのですが、戦中史、戦後史から続くものとして沖縄の現代史を撮りたいとずっと思っていました。沖縄県知事を通して現代史を見つめると考えたとき、これまで務めてきた8人の県知事それぞれに深掘りすることができる。その中で“沖縄の現代史”と考えると、この30年の辺野古を巡る国と沖縄の歴史が一番根深いものです。その起点となる大田さんと、最初は辺野古移設を推進している立場でしたが、その後移設反対の矢面に立ち、最後は病に倒れた翁長さんの二人を掘り下げて描くことにしました。

映画をご覧いただくと分かるのですが、この二人は元々ずっと政治的に対立した関係だったのです。私も、それだけ火花を散らしていた二人がどんどんと重なっていくのはなぜなのかを紐解きたいと、以前からずっと思っていました。そこにこそ沖縄の歴史があり、国が沖縄にどう相対してきたか、の答えがある。まさに国の姿が見えてくるという、複合的な要素が自分の中に生まれてきました。


━━━確かに、大田さんも翁長さんも、知事となって国と直接対話をする中、基地問題では沖縄の声がかき消され、司法すらあてにできない状況で苦悶されます。

佐古:政治のリーダーを描いていますが、それを通して見えるのは沖縄の人たちの歩みなんです。沖縄県民の選択の象徴が県知事で、他の都道府県知事と比べても抱えている問題の大きさを含め、特異な存在だと思います。



━━━冒頭と途中で、筑紫哲也さんのニュース番組「NEWS23」の多事争論が引用されていますね。

佐古:映画に挿入しているのは私が「NEWS23」のキャスターになる2週間前の番組で、96年9月13日に大田さんが苦悩の末に公告縦覧代行を応諾するところから映画をスタートさせるにあたり、当時の映像を総ざらいして調べる中で、当時のこのニュースに対する筑紫さんの言葉を見直したのです。その中で、まさに9月13日に今後を予言するかのような多事争論がありました。直近だけではなく、今に至るまでの国と沖縄の関係を、30年近くも前に筑紫さんは言い当てていた。それにハッとさせられたのです。



■「日本にとって沖縄とは何なのか」を投げかけ続けた大田さん

━━━私は知事になられる前の大田さんについては全く知らなかったのですが、佐古監督ご自身は大田さんの過去を深掘りしていく中で、どんな気づきがあったのでしょうか?

佐古:大田さんが知事時代はあまり取材をする機会がありませんでしたが、私がTBSの政治部に移り、大田さんが参議院委員になられてからは、よく議員会館でお話を伺いました。また政界を引退された後に特定非営利活動法人・沖縄国際平和研究所を設立されてからは、ことあるごとに大田さんにインタビューをお願いしていたんです。その度に投げかけられるのは「日本にとって沖縄とは何なのか」ということでした。大田さんが政治家になる前の研究者時代からのテーマでもあり、僕もそのテーマを与えられてずっと考えてきましたし、大田さんは僕にとっての先生のような存在だと思っています。

 今回、この映画を作るにあたり、当時はインタビューをしたけれどオンエアされていない素材もたくさんある中で、もう一度インタビュー素材に向き合うことができたのはすごく良かったと思います。例えば、議員を引退する直前のインタビューで、「国会に出てきて思うのは、議員たちがあまりにも戦争を知らなさ過ぎる」と。集団的自衛権が認められる前の話でしたが、あれだけ凄惨な沖縄戦を体験した大田さんだから言えることです。与那国島まで自衛隊の基地がつながり、ミサイル防衛と言われている今、大田さんが言っていたその言葉が、再び語りかけてくる気がします。大田さんの変わらぬメッセージは、この作品の中でも生き続けていると思います。


━━━翁長さんの過去の映像も、今見ると予言のように思えるものがありました。

佐古:知事選当選後のインタビューで翁長さんは「この先自分が体を悪くして死んでも…」という言葉がありましたが、当時は少し笑みをたたえながらでしたし、聞いている側もそこまで重い受け止め方をしていなかったのです。でもその後の翁長さんの歩みを知った上で、改めてその映像を見ると、ものすごい覚悟で、命がけで取り組んでいたことがわかる。過去の映像にはそういう発見があると、すごく感じますね。



■大田さんと翁長さんは、どこかで魂が触れ合う瞬間があったのではないか

━━━翁長さんが知事になってから、大田さんが翁長さんの状況を思いやるようなインタビューも入っていましたが、実際に二人が直接言葉を交わすことはなかったと?

佐古:多分、直接二人が和解することはなかったと思いますが、どこかで魂が触れ合った瞬間があったのではないでしょうか。でも、翁長さんの知事選の投票日に大田さんのところに行き、翁長さんのことを本当はどう思っているのかという気持ちもあって取材していると、決して翁長さんのことを名指しはしないけれど、これはどう考えても翁長さんのことを話しているだろうなというのがわかり、しかもあまり評価していなかった。要するに、基地反対と言うけれど、国と話し合う中で具体案は出てこないし、ふさわしい人はいないと話していて、私は厳しいことをおっしゃるなと思いながら聞いていたのです。その発言にしても、すごく人間的ですし、いろいろな感情が渦巻きながら、物事が動いていることを痛感しました。


━━━大田さんの知事時代は橋本総理と17回にも及ぶ会談を重ねていたんですね。

佐古:政府とは距離があるはずの革新から出た沖縄県知事である大田さんが、あれだけ政府と協議をしている。というのも大田さんは革新ではあるけれど、現実的な人でもあるんですよ。アメリカ留学でアメリカ文化を吸収し、政府側も大田さんは親米だと評価していたので、大田さんなら政府案を受け入れてくれるのではないかと思っていたのでしょう。最初の公告縦覧代行を応諾する場面で「反対ばかりでは前に進まない」という大田さんの言葉を入れましたが、どうすれば基地を減らし、豊かな沖縄が実現できるのかをさまざまな側面で考えていたのでしょう。だから、革新だから政府と距離を取るとか、保守だから常に政府と歩調を合わせるというのではない。決して本土側の単純な図式が当てはまるわけではないと思います。



■うちなんちゅーはブレてない

━━━さきほどの大田さんと翁長さんが言葉を交わすことはなかったというエピソードにつながりますが、翁長さんが大田知事を県議会であれほど鋭く追及し続けていたことにも驚きました。

佐古:翁長さんが大田さんへの追及の手を緩めなかったのは、政党人としての振る舞いという部分が大きかったのではと推測します。でも那覇市長になり「市民のことを考えたら右も左もない」と政党のくびきを逃れた時に、ようやく自分が出せるようになったのではないでしょうか。そして基地問題だけでなく、教科書問題などと相まって、国に対する疑問がどんどんと膨らんできた。最後はアイデンティティーに生きるという部分で、二人が結びついた気がします。


━━━知事になってからの翁長さんは、ブレない姿勢を貫きました。県民がブレない翁長知事を作り上げたのかと。

佐古:映画『カメジロー』で描いた民衆と政治のリーダーの距離感の近さは、他の場所ではないと思うのです。カメジローは「不屈」が代名詞ですが、カメジロー曰く、(沖縄)県民が不屈だから、僕は不屈という言葉が好きだというのです。お互いが不屈と呼び合う関係がある。そこから時は流れ、セルラースタジアムの県民大会で翁長さんが県民と「屈しない!」と声を上げて一つになるのですが、翁長さんも「うちなんちゅーはブレてない」「基地を作らない、作らせないという決意は県民と共にある」と言った。常に県民を意識した言葉で、リーダーから民衆への信頼感が伝わり、そうすると民衆もリーダーを信頼する。県民大会の光景も、裁判の前に県民の翁長コールで法廷に送り出される光景も沖縄以外で見られるものではない。大田さんも犠牲になるのは県民だから沖縄の人権侵害を未然に防ぐことが大事になるので法的に負けてもくじけることはないと言っている。沖縄県知事が常に県民と信頼関係を築いてきたというのは、歴史的なものでもあると思います。



■沖縄の人たちの原点は「戦争」

━━━くしくも大田さん、翁長さんの選挙戦に挑むにあたっての出発点は、それぞれの戦争体験に起因する祈りの場所でした。

佐古:この二人だけでなく、沖縄の人たちの原点が戦争なんです。大田さんがジュークボックスで何度も連続して聞いていたという「艦砲ぬ喰ぇー残さー」をテーマ曲にしましたが、でいご娘さんは翁長さんが先頭に立って行った戦後70年の県民大会で、大会主催者側から「艦砲のうたを歌ってほしい」と言われたそうです。実際に演奏が始まると、会場に詰めかけた県民みなさんが手拍子をして歌っているんです。その姿を見て、私は翁長さんと大田さん、そして県民がつながっていると思いました。みんな戦争が原点で、あえて明るい調子で歌われた歌ですが、じっくりとその歌詞を聞くと戦争への憎しみが紡がれている。どれだけ戦争の中で苦しみ、そこから立ちあがることが大変だったかがよくわかる歌詞なんですよ。


━━━その一方で、本土の私たちは基地問題も含めて、常に他人事になってしまっていると自問自答させられます。

佐古:筑紫哲也さんが「沖縄に行けば、日本がよく見える」と話していましたが、沖縄の勝ち取った民主主義と、本土の与えられた民主主義とでその重さは全然違うと思うのです。「多数決で物事が決定される民主主義の名において、沖縄が常に犠牲にされる形が今後も続くのかと思うと暗然とせざるを得ない」と大田さんが話していましたが、少数の意見を聞くのが民主主義なのに、常に多数派が少数派の上であぐらをかき続けている状態が果たして民主的だと言えるのか。沖縄はいつも問うているし、民主主義を諦めない。その象徴が沖縄県知事であり、その民主主義について改めて考えていきたいです。



■沖縄を語ることは、国のありようや、民主主義を考えること

━━━『太陽(ティダ)の運命』というタイトルに込めた想いは?

佐古:本作は琉球放送の創立70周年記念作品で、琉球放送のメンバーと企画段階から議論を重ねながら製作を進めてきました。タイトルもいろんな言葉をミーティングで出して行く中で、琉球王国時代にはリーダー的存在を表す言葉でもあった「太陽(ティダ)」がいいねと。「運命」という言葉は、屋良朝苗初代沖縄県知事の本土復帰の日の日記にたくさん出てくるのです。ですから、沖縄県知事がこの「運命」にどう向き合ってきたのかを描ければというところから『太陽(ティダ)の運命』になりました。


━━━最後に、沖縄を題材に何本も映画を作られていますが、なぜ佐古監督は沖縄を取り上げ続けているのですか?

佐古:「ニュース23」時代、最初に沖縄に関する特集を組んだ時のテーマが、地位協定でした。なぜこんな不条理なものがあるのかと思ったし、不条理があり続けるのか追いかけ続けて、今に至っています。こう言うと「またイデオロギーの話か」と言われそうですが、沖縄の人たちにとっては生活に密着した話なんです。生活の問題であるところに視点を置くと、大田さんや翁長さんが繰り返し訴えていた「基地の問題は人権の問題である」というところにつながってくる。そこは伝え続けることが自分の役割だと思い、その結果、沖縄が一番多く通う場所になりましたね。沖縄を取材したり、語ることはそのまま国のありようや、民主主義を考えることになります。だからそれがテーマになり続けていますね。

(江口由美)



<作品情報>

『太陽(ティダ)の運命』

(2025年 日本 129分)

監督:佐古忠彦

語り:山根基世

琉球放送創立70周年記念作品 制作:琉球放送 TBS テレビ 配給:インターフィルム

2025年5月3日(土)~第七藝術劇場、5月2日(金)〜京都シネマ、5月10日(土)元町映画館他全国順次公開

※京都シネマ 5月2日(金)11時の回上映後

第七藝術劇場 5月3日(土)14時10分の回上映後

元町映画館 5月10日(土)10時30分の回上映後、佐古忠彦の舞台挨拶あり

公式サイト⇒https://tida-unmei.com/

©2025 映画「太陽の運命」製作委員会