「辰巳さんの料理の背景には、すごくスケールの大きい哲学的な思想がある」 『天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”』 河邑厚徳監督、矢内真由美プロデューサーインタビュー


   NHK「きょうの料理」を担当してきた矢内真由美プロデューサーが、食材の向こう側の生産者や、自然にも思いを寄せられている姿勢や、伝える言葉の美しさが魅力的な料理研究家・辰巳芳子の料理哲学を描いたドキュメンタリーを作りたいと河邑厚徳監督にオファーして完成したドキュメンタリー『天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”』。辰巳芳子の100歳記念上映として、5月30日(金)よりアップリンク京都で1週間限定上映される。

本作の河邑厚徳監督、矢内真由美プロデューサーにお話を伺った。



■完全高齢化の時代、生きる基本にあるのは食

――――今回は辰巳芳子さん生誕100年を記念しての再上映となりましたが、公開当時と今とで観客から反響に違いなどありましたか?

河邑:辰巳さんも100歳になられましたが、この10数年で世の中が完全に高齢化の時代に変わってきました。長い人生をどうやって生きていくかを考えたとき、映画で辰巳さんもおっしゃっていますが、その基本にあるのは食だということに改めてみんなが納得できるようになったという実感はあります。

矢内:公開時にご覧になった方が再上映も観てくださり、「また全然違うものが見えてきた」とおっしゃっていたのが印象的でした。私自身もそうですが、この映画を通してそのとき自分が持っている問題が見えたし、10数年を経た今、改めて観ると「この映画には、こんなことが映っていたのか」「辰巳先生はこんなことをおっしゃっていたのか」と気付かされ、またそれが心に残る。そんな不思議な体験をする映画なのかもしれません。


――――矢内さんはディレクター、プロデューサーとして、長年NHK「きょうの料理」を担当されていますが、辰巳さんとの出会いについて教えてください。

矢内:92年にNHKエデュケーショナルに入社して以来「きょうの料理」を担当していますが、辰巳さんには辰巳番という専属の担当がおり、私が担当するまでは先輩が辰巳番をしているのを遠くから見学させていただいていたのですが、そこで辰巳さんの言葉や所作の美しさに感動し、いつか自分が担当ディレクターをさせていただきたいと思ったのです。辰巳番の先輩からバトンを託されたのはその10年後ぐらい、私が30代半ばの頃でした。


――――憧れの辰巳番になり、辰巳さんへの印象は変わりましたか?

矢内:とにかく緊張しました(笑)。お会いする1週間前ぐらいから何を着ていこうか、言葉遣いも含めて粗相のないようにということや、的確に取材をし、こちらの意図を伝えられるようにと準備に余念がなかったです。とにかく勉強しなければ辰巳先生とお話ができないので、先生のこれまでの著書を読み込んでから向かうようにしていました。



■『きょうの料理』に哲学を導入したい

――――映画を作ることになったきっかけは?

矢内:私が辰巳番となり、先生と番組づくりでご一緒している間に、先生は「スープの人」として有名になり、番組でも1年かけて四季のスープをシリーズで放送し、おせち料理も特集しました。先生はおせち料理のことを「料理の一年の期末試験」、つまり煮しめや正月料理はこれまでどれだけお料理に取り組んできたかがわかるとおっしゃっています。2009年末に先生がNHK放送文化賞を受賞される報告をしました。2010年に行われる授賞式の日程とともにこれまでのお礼をお伝えしたところ、翌日に先生からお電話をいただきました。そこで「私、まだやり足りないことがあるのよね」とおっしゃった言葉が心に残っていたのです。河邑さんに相談したところ「だったら、映画じゃないの?」と言われ、最初は驚きました。

河邑:僕はNHKでずっと現代史や宗教、芸術、文化などのドキュメンタリーを作ってきたので料理という題材は経験がなかったです。映画の中で辰巳さんが料理を作るとしても、テレビ番組と違う要素をどう取り入れていくかが肝心でした。矢内さんが辰巳さんから聞いていたのは、30分弱という限られた時間ではどうしてもレシピやプロセス重視になってしまうので、違うことをやってみたい。つまり、「『きょうの料理』に哲学を導入したい」ということでした。それなら、いわゆる料理番組の延長のような映画ではなく、辰巳さんを通した思想や自然観などいろいろなことを映し出せるのではないかと思ったことが、映画にしたいと思ったきっかけでした。



■鎌倉が持つ長い歴史の中で培われてきたものを伝えたい

――――タイトルからイメージするもの以上の、森羅万象に触れている感じがしました。鎌倉のご自宅での撮影が多かったようですが、日々森のような庭で採集した野菜たちを生かして料理仕事をされており、美しい暮らしだなと思いながら拝見していました。

河邑:古都、鎌倉は京都と地形や自然が似ていますので、独特の土地が持つエネルギーや風景があり、そこに辰巳さんのご自宅があるわけです。そこには辰巳さんは「宇宙」と表現されますが、鎌倉という場所が持つ長い歴史の中で培われてきたものがあるし、海が近いので季節によって風が変わります。辰巳さんはそれらを身体に受けて感じたことから、自分の味を作ってこられたというイメージが僕にはありました。それは映像や形にならないのだけれど、そういうものを伝えられればという想いが最初にありましたね。

矢内:鎌倉駅からバスで最寄駅まで行き、車一台がやっと通れるぐらいの小さな緩い坂道を登っていくとき、木が私たちを覆い、どこか違う時空間に連れていかれるような感覚がありました。私自身がドキドキしながらも感覚が研ぎ澄まされ、実際に先生と向き合ったときも自然体でかつスッと背筋が伸びたような気持ちで接することができました。先生ご自身もそういう場所に身を置かれていることで、感性や色々なことが磨かれかつ、たくさんの生命が溢れている中でホッとされてもいたでしょうし、それらからエネルギーをいただいて過ごしておられたと思います。私たちはたとえ感性や知性を磨いたとしても、様々な雑音に剥ぎ取られていきがちですが、先生は剥ぎ取られることなく、それらを優しく積み重ねたことが多くの本や言葉となって、発信されています。そういう土地と人との関係性が先生ご自身の中に入っており、私たちはそれに吸い込まれていく感じがしました。


■辰巳さんの料理を通じて感じるものは?

――――辰巳さんが信頼を寄せている日本各地の農家の方々も取材されていますね。

河邑:辰巳さんの庭の草花も、単に鑑賞するだけでなく、それによって辰巳さんご自身が生かされていたし、誠意を持っていいものを作ろうと取り組んでいる農家の方々がいるからこそ、辰巳さんのスープや料理ができる。辰巳さんは個人が作った料理を通して、四季のある風土や日本列島の広がりを感じるということを形にしようとされていました。辰巳さんの料理の背景には、すごくスケールの大きい哲学的な思想があると、いつも感じます。


――――作物が根を張る土のことを語るシーンも多く、実際に日本全国の土収集のフィールドワークされているアーティスト、栗田宏一さんの展示の様子には、地域ごとの土の多様な色彩や表情に驚かされました。

河邑:辰巳さんの仕事の背景には土があり、太陽があり、水があるわけですが、理屈で言うとわかりづらい話も、具体的な作品を通してそれらが語られることで、観客のみなさんにも感じてもらえることがあるのではないかという想いがありました。栗田宏一さんが収集した日本全国の土を見ていると、あんなに多様性があるのかと驚きます。フランスで展示することが多いそうで、栗田さんは世界の人たちに改めて「土」の意味を感じさせるアーティストと言えるでしょう。農薬を使って土をどんどん開拓し、森をどんどん消滅させていく現代文明への無言のアンチテーゼを感じることができればと思いますし、まずは私たちの足元を見つめることですね。普段、なかなか気づかないことですから。



■宮崎かづゑさんから辰巳さんに届いた手紙

――――撮影はいつからスタートしたのですか?

矢内:映画では後半に登場しますが、2010年秋、長島愛生園へ宮崎かづゑさんの取材に訪れたのが最初の撮影だったんです。


――――訪問はかづゑさんから辰巳さんへ感謝の手紙を出されたことがきっかけとのことですが、どのように撮影へと繋がったのですか?

矢内:撮影前の資金集めをしているある日、辰巳さんから「こんな手紙が来たのよ」とファックスが届きました。そこには辰巳先生が番組で紹介していたスープをかづゑさんご自身が作り、末期ガンの友人に食べていただき見送ることができたことへの感謝の言葉が綴られていたのです。その後、辰巳さんから神戸へ講演会に行くのだけれど、神戸と長島愛生園は近いかと聞かれ、行ってみたいとおっしゃったことから、河邑さんにこれは撮りましょうと連絡を入れました。

かづゑさんには事前に私が手紙で映画の撮影をさせていただきたい旨を伝え、直接お会いして改めて撮影のお願いをしたところ、かづゑさんからは、ご自身を隠さずそのまま撮ること、かづゑさんが指定した場所で、美しい長島とともに撮影することを約束してほしいとリクエストをいただいたのです。それらを踏まえて撮影したのが、本当に一期一会のシーンです。



■「湯気の向こうに見える実存的使命」が撮れた瞬間

――――クランクインがクライマックスのような撮影だったんですね。

河邑:辰巳さんの本(「あなたのために いのちを支えるス-プ」)に「湯気の向こうに見える実存的使命」という言葉があるのですが、辰巳さんは、そういうものが映画で描かれるなら自分が作りたいものになるとおっしゃいました。通常、カメラは目に見えないものは撮れませんから、スープの湯気は撮れてもそれだけではダメなんです。「湯気の向こうに見える実存的使命」とは?という、まるで禅問答のような状況に陥りそうだったのですが、そこで宮崎かづゑさんからの手紙が届いた。まさに辰巳さんがおっしゃるようなことが、ノンフィクションで目の前に現れたのです。自分でシナリオを書くと、不自然になってしまうところが、この映画がそういう運命的な形で始まったのは大きかったです。

もう一つ、ノンフィクションのドキュメンタリーとして2011年3月11日の東日本大震災で体験したことも描いています。日本の風土や自然の川、土、水全てが原発事故で汚染されてしまい、日本が若い世代にとって、健康を保って生きるのが難しい国になってしまった。震災の前後に撮影をしていたことも含め、偶然に色々な力が合わさり一本の映画ができたわけですから、本当に不思議なことですよね。


――――震災後のお料理教室では「食は生死を分かつ」と被災者を支える食について辰巳先生が語られているのも印象的でした。

河邑:テーマが向こうからやってくるというのは、ノンフィクション映画で相当うまくいった時なんですよ。私はそれまでNHKのディレクターだったので映画を作ったことがなかったのですが、映画監督のキャリアの第1作目として自分にとっても素晴らしい出発点になりました。



■辰巳さんが語った戦争と亡き夫のこと

――――もう一つ、今年は戦後80年ですが、本作でも辰巳さんが戦争で亡くした夫とのエピソードを語るシーンがあります。辰巳さんのように、結婚直後に夫が戦死し、戦後何十年もしてからその地を訪れたり、ようやくそのことを語り始めるという同世代の方も多いのではないかと、様々なことを想起させられました。

矢内:長年辰巳番をしていましたが、戦死されたご主人のことはこちらからは聞けないし、先生もお書きになることはなかったのです。でも、8月の終戦記念日が近づき、辰巳さんには日本の戦争や戦後、お父様やご主人のことを含めて何か語ってもらわなければいけないのではないかと、河邑さんがインタビューを申し込んだのです。私からお伝えしたとき、辰巳さんはこの映画と何の関係があるのかと、ずっと拒んでおられたのですが…。

河邑:辰巳さんは、どこかで話さなくてはいけないと思っていたのでしょう。よく考えれば辰巳さんの仕事の根っこにあるのは命なんです。召集令状を受けた許嫁と短い時間であっても結婚生活をし、(戦死後も)彼が悲しまないようにしたいというのが命の物語の原点で、そこから辰巳さんの父を見送るための命のスープになり、そのあとの様々なスープのストーリーに繋がるわけです。僕はずっと昭和史、太平洋戦争や沖縄戦を取材していたので、戦争やそれにまつわる話を聞くというのは特別なことではなかったし、辰巳さんは話してくださるという確信がありました。亡き夫に対し、50年経ってもあんな感情が湧き出すとは、なんて誠実な方なんだろうと思いましたね。



■スープのことを知り、手立てがあることが励ましや希望になる

――――見所の多い本作ですが、辰巳さんのお料理シーンで撮り方にこだわった点は?

河邑:宗教であれ芸術文化であれ、映像の表現で言えば同じで、一番いい部分を伝えることに尽きます。宮崎さんの手紙や東日本大震災も大きな偶然でしたが、もう一つ、辰巳さんのお父様が亡くなられたのは金婚式のすぐ後で、辰巳さんがフィリピンに行かれたのもご自身の金婚式だった。50年という時間の節目が重なっていたんですね。大きな時間や何かが後押ししてくれたときに、素晴らしいノンフィクションが生まれると思います。

矢内:河邑さんにお願いしたのは、辰巳さんの手の所作がとても美しいので綺麗に撮ってほしいということと、料理の音を綺麗に録ってほしいという2点でした。番組で様々な料理研究家の方と一緒に仕事をしてきましたが、辰巳さんは食材に合わせた手の絞り加減をされるし、触り方、置き方、鍋の中のかき混ぜ方もしかりですね。辰巳さんは鍋の縁が汚れないのですが、今そういう方はいらっしゃらないです。細部まで綺麗にすることが食べごこちを生み、盛り付けたときにも美しい。つまり美味しいを生むのです。辰巳さんはそのプロセスが全てわかっておられるので、それを記録しておきたいと思いました。

この映画を観たからといって、辰巳さんが作るような料理は作れないけれど、気になると思うのです。だから辰巳さんの本を取り寄せてチャレンジしてみる。実際それはとても大変なのですが、その時が来たとき作れる自分になるために、やっておくということですね。また、辰巳さんのスープのことを知っていれば、ご家族が食べられなくなったときにスープを作ろうと思えるし、その手立てがあることは、みなさんにとって励ましや希望になる。そのための『天のしずく』であり、辰巳さんの映画を作れて本当に良かったです。


――――私も辰巳さんの料理本を買いましたが、最初に出てくるのがおつゆで、シンプルだけど手間がかかり、本当に繊細で奥が深いなと感銘を受けました。

矢内:時短料理が流行っていますが、私がディレクターになって間もない頃に、辰巳さんから「簡単の向こうは無である」という言葉を聞きました。。「簡単なものに自分の命を預けていいの?」と。きちんとやっていけば、最後は自分の手の中に残るものがあるとおっしゃっていたのです。料理だけでなく生き方に通じる話で、まさに食を通じた哲学者ですね。



――――辰巳さんの言葉も哲学者のようで、草笛光子さんの語りが素敵でしたね。

河邑:辰巳さんの独特なエッジが立ちながらも柔らかい文章に、草笛さんの語り口や声がぴたりとはまっていました。でも現場では大女優の草笛さんでも緊張されていて、辰巳さんの言葉に共感したからこそ、これでいいのかどうかと私に尋ねることもありました。役者として読んでいるのではないからこそ、深く伝わってきたのかもしれませんね。


――――最後に京都でご覧になるみなさんにメッセージをお願いします。

河邑:日本には、日本人が安心して食べられる主食があり、辰巳さんが米や豆の自給に取り組んでこられたことやその意義を、今ならより伝えられる作品だと思います。和食ですから京都の方にぜひ観ていただきたいですね。

矢内:滋賀県の大津市民病院の緩和ケア病棟では、今もスープをサービスされています。病院側や医師、看護師、ボランティアの皆さんや患者さんの家族という大きな輪の中で、月2回提供し続けている。そういう地道な活動のある土地はすごく強い食への想いがあると思うし、ご覧になったときに身近に感じていただき、自分ごとにしていただけるのではないでしょうか。また、みなさんそれぞれに物語があり、悩み事がある中で、映画を観ることで心の中に光が当たり、解決策や希望の光が必ず見えてくると思います。

(江口由美)


<作品情報>

『天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”』(2012年 日本 113分)

監督:河邑厚徳 プロデューサー:矢内真由美

出演:辰巳芳子 朗読:草笛光子 語り:谷原章介

2025年5月30日(金)よりアップリンク京都で1週間限定上映

※5/30(金) 12:10の回上映後&5/31(土) 12:10の回上映後、河邑厚徳監督のトークイベントあり

※上映時間は6/1(日)のみ12:30〜、その他の日は12:10〜

(C)2012 年 天のしずく製作委員会 (C) 2011 tennoshizuku. All Rights Reserved.