「自分に起きたことを理解してくれる人のいることが、どれだけ大切かを教えられました」 『黒川の女たち』松原文枝監督インタビュー


 太平洋戦争末期の満州で開拓団が生き延びるためにソ連軍への性接待を強いられ、帰国後も誹謗中傷を受け、長年その事実を伏せられてきた黒川開拓団の女性たち。彼女たちが手を携えて声を上げ、尊厳を取り戻すまでを記録した松原文枝監督(『ハマのドン』)の最新作『黒川の女たち』が、7月12日(土)よりなんばパークスシネマ、MOVIX八尾、MOVIXあまがさき、MOVIX京都、7月18日(金)より京都シネマ、7月19日(土)より第七藝術劇場、元町映画館にて公開される。本作の松原文枝監督にお話を伺った。



■佐藤ハルエさんの決意と気迫が伝わる写真に導かれ

━━━太平洋戦争末期に満州に集団入植した黒川開拓団において、関東軍に放置され、生き延びるためにこのような性暴力が黙認されたこと、“接待”役を務めさせられた女性たちが帰国後も誹謗中傷を受け、長年この事実を公然で語ることがタブーとされてきたことを本作で初めて知りました。次世代へ女性たちの肉声を伝えていくという点でも大きな意義のあるドキュメンタリーです。松原監督がこの問題に取り組もうとしたきっかけを教えてください。

松原:黒川の女性たちが公の場で声を上げたのは2013年7月に満蒙開拓記念館で行われた「語り部の会」で、その場にいた研究者の方々の間でその事実が広まったものの、メディアにまで広がるにはもう少し時間が必要でした。

2017〜18年ごろから地元の中日新聞、岐阜新聞、NHK岐阜支局(2017年Eテレで「告白~満蒙開拓団の女たち~」が放映)などが取り上げるようになり、さらに朝日新聞全国版の社会面にも、佐藤ハルエさんが8月の証言者集会(岐阜市民会館)で語ったご自身の性接待体験のことが大きく掲載されました。高齢であっても話せないとか、死ぬまで隠し通しておきたいという方も当然いると思いますので、当時93歳のハルエさんが、このように自分の体験を堂々と語ったこと、かつそのときのハルエさんの写真がとても印象的だったのです。自分がみんなに伝えなくてはいけないという決意や気迫がすごく伝わる写真で、そのハルエさんの写真を見たとき、この方のお話を伺いたいと思った。それが取材を始めるきっかけでしたね。


━━━映画ではハルエさんが記事にしてもらいたくても、会社の許可が出ず、記者が記事にできなかったという話も登場しますが、松原監督の場合、取材を行うにあたって社内的に難しいことはなかったですか?

松原:2017年に#Me Too運動がおき、わたしが取り組もうとしたときは、社会の理解度が格段に進み、性被害に対する意識も変わっていたのです。すでに地元紙で取り上げられていましたし、2018年11月には黒川開拓団遺族会がそれまでなかったことにしてきた性接待の事実を認め、碑文に残したことがローカル局のニュースでも放映されましたので、わたしがこの件を取材する上での問題は全くありませんでした。


━━━2013年、語り部の会でのハルエさんの証言映像も本作で登場します。

松原:2013年4月、長野県に満蒙開拓団記念館が開館しました。満蒙開拓について調べたいとか、自分の家族や遺族について調べたいという方々が来られる場であり、そしてハルエさんのような現地で大変辛い想いをされた方々が話せる場所ができたのです。



■満蒙開拓団記念館開設でようやく“公に話す場”ができた

━━━公に話せる場ができたというのはとても大事ですね。

松原:特に佐藤ハルエさんは以前から自分の体験を書いてほしいと言い続けており、映画で登場する新聞記者に頼んだエピソードは95年のことで、しかも実名入りで載せてほしいと依頼しています。さらに遡って83年には、佐藤ハルエさん、安江玲子さん、安江善子さんが声を上げたいと思い、残留婦人に詳しい作家が取材した記事が月刊宝石にて掲載されたのですが、名前や地名が全てイニシャル表記だったので、どこで起こったことなのかわからないし、センセーショナルな見出しが付けられてしまった。でも、きちんと読めばどんなことが起きていたかわかるので、満州から戻り、まだご存命の方が多かった元黒川開拓団の人の中には、掲載号を買い占め、焼き捨てるようなこともあったそうです。その83年の時点でも、ハルエさんだけは実名での掲載を希望されていたのです。


━━━そんな前から、ハルエさんはずっと実名で性被害のことを語っておられたんですね。

松原:本来責任を問われるべきなのは、敗戦が目に見えているのに開拓民を引き揚げさせなかった国だと思うのですが、実名で話すということは、自らの家族にも影響が及ぶリスクがあります。ハルエさんは夫にも自身の体験を話しておられたし、汚いと蔑まれる可能性があることも覚悟の上で、とにかくきちんと知ってもらいたいという想いが強かったのだと思います。

声を上げたくても、その声を常に封じ込められ、また抑圧されてきた中で、ようやく満蒙開拓団記念館ができ、ハルエさんにとっては願ってもない「話す場」ができたわけです。この記念館が素晴らしいのは、このときのハルエさんらの語りをきちんと記録していたのです。どういう趣旨で取り扱いを希望するのかをきちんと事前に聞いた上で、記録映像を貸し出しているので、2013年のハルエさんらの活動を映画で提示することができました。



■念願の碑文作成とその反響

━━━満蒙開拓団記念館は場の提供だけでなく、証言者を守り、継承する活動を丁寧に行っておられるのですね。先ほどお話にでた黒川開拓団遺族会も地道な活動を続けておられる様子が映し出されています。

松原:遺族会の存在はとても大きかったです。取材も遺族会に連絡をして安江菊美さんをはじめとするみなさんを紹介していただいたり、中には直接お願いして取材を進めていきました。

碑文作成に反対の立場の人は、碑文を作ることで性接待の事実が明かされてしまうので、今まで家族に言えずに苦しんでいる被害女性たちを守りたいということや、親の世代ではありますが性接待をさせた側としてその責任を認めなくてはいけないため白日に晒したくないなど、様々な理由があります。

そういう反対意見がある中、性接待を事実として認め、彼女たちに開拓団がそれを強いた事実を書き残した碑文ができたわけで、碑文に名前は書かれていないものの、その事実が明らかになった後、一体どうなるのかと注視していたのです。するとハルエさんのもとに、たくさんの人が訪れるようになったのです。


━━━まさに声を上げるという#Me Too運動の精神、そのもののように捉えられたのかもしれません。

松原:女性が抑圧に屈することなく、あれだけのことを公で語ることは度胸も勇気も要るので、突き動かされるわけです。その行動を目の当たりにすると、わたし自身も何かせねばと思わされたし、同じような想いで学校の先生や学者、大学生、高校生、会社員の女性などが

ハルエさんのもとを訪れ、またハルエさんも一人ひとりと丁寧に向き合って話をされるのです。人の心を動かすとはこういうことなのかと、その様子を目の当たりにしました。

日頃のハルエさんは、笑顔が多く、とてもしっかり者の女子なのですが、満州時代の話になると本当に真剣に向き合って話をされます。また来られた先生方はみなさん、ご自身の授業に落とし込んで生徒たちに伝えておられ、その様子を撮影しながら、このように物事は動いていくのかと伝えることの広がりも実感したのです。



■長年、相談相手のいなかった玲子さんに訪れた心の安寧

━━━大きな反響のあった碑文ですが、出来上がるまで文言の精査や元開拓団の反対派との調整も含め、遺族会の尽力なしでは難しかったことも捉えていましたね。

松原:遺族会会長の藤井宏之さんに碑文もできてひと段落では?と話していたら、東京に住む安江玲子さんは黒川に帰りたくないし、謝罪をしに伺うことも難しい状況だと聞かされました。玲子さんは、わたしには色々話してくださるのですが、実際は毎日夜中まで眠れず、満州でのことを家族にも話していなかったので、相談相手が誰もいなかった。ハルエさんとの手紙のやり取りぐらいしか、自分の気持ちを伝える場がなかったので、本当に鬱々としていました。

コロナで少し時間は空きましたが、2023年10月末に玲子さんから藤井さんに会ってもいいと連絡があったのです。心境の変化の理由がわからないまま、藤井さんと一緒にわたしもカメラを持って玲子さん宅に伺ったところ、本当に朗らかな表情になっておられたのです。今までは質問することによってトラウマがフラッシュバックしてしまわないかと、わたしも神経をつかっていたのですが、その日は冗談まで飛び出し、本当にびっくりしました。お孫さんからのハガキも玲子さんが自ら見せてくださいましたし、彼女の大きな変化を目の当たりにしました。

ずっと書くことだけが心の拠り所でいらした玲子さんですが、もはや書いていたことも忘れているほどで、それぐらいご自身の心の安寧を取り戻された。自分に起きたことを理解してくれる人のいることが、どれだけ大切なのかを玲子さんに教えられました。これは何か形にしたいなと思ったのです。


━━━玲子さんの心境の変化が伺える編集になっていました。一方、ずっと声を上げ続けてきたハルエさんは、帰国後に遡っての半生も描いていますね。

松原:ハルエさんが満州から帰国後、黒川を追われて何もないひるがので荒地を開拓していった時代のことも深掘りしたいと思いました。たださらに詳しく取材をしようとしていた2023年末にハルエさんは体調を崩し、入院されてしまった。数日で退院したものの、食べられなくなってしまい、残された時間は短いと感じて、藤井さんご夫妻とお見舞いに行ったのです。ずっと菊美さんがハルエさんのそばで話しかけておられ、藤井さんご夫妻が到着するのを待っていたかのように、到着から10分後に息を引き取られました(2024年1月18日逝去、享年99歳)。家族以外で看取りに立ち会う機会が通常はない中、ハルエさんたち女性たちが成し遂げたものを遺さなくてはいけないという責務に駆られました。この時映画にしたいと思いました。ハルエさんに突き動かされたのです。コロナ期間も含めて足掛け6年間撮っていました。



■親世代が犯したことの責任を子世代が取った良き事例

━━━碑文で戦時下の記憶を残し、また謝罪された遺族会会長の藤井宏之さんに対するみなさんの熱い信頼が伺えます。

松原:藤井さんは戦後世代ですが、そのような次世代が自分たちの親世代が行ったことの責任を引き受け、親世代の代わりに謝罪をするというのは、本当に簡単なことではありません。女性たちが連帯し、彼女たちがなんとか声を上げようとする中、その意思を藤井さんはきちんと受け止めるわけです。藤井さんの父は女性たちの「呼び出し係」でしたから、藤井さんが何度もハルエさんらに話を聞きにいき、きちんと自分の耳で何が起きていたのかを確かめる。そのような藤井さんの行動は立派だと思いますし、女性たちの気持ちに寄り添うのです。


━━━藤井さんご夫妻の草の根活動は映画でも度々取り上げていますね。

松原:藤井さんがいなければ、このような展開にはなっていなかったでしょうし、逆にこういう人のいることが希望になります。戦時下の様々な被害の実態は埋もれていくことがほとんどですが、黒川の場合、性被害に遭った女性たちも頑張り、周りも支援し、次の世代も受け止めた。研究者やメディアも彼女たちを大事にしなくてはとタッグを組んだような形で、まさに共同作業という感じだったのです。

 ハルエさんらが伝えようとしていることをみんなが大事にし、きちんと歴史に残そうとした人がいることを受け止めて、彼女たちが遺したものを次世代に、次は自分たちが伝えていく。うまく繋がっていくことで、親の世代が犯したことの責任を、子世代が取ることができることを示した、とても意義のある事例だと思います。


━━━証言活動をされてこられた故安江善子さんのご遺族と遺族会との関係づくりや、安江さんの息子、泉さんの言葉は、丁寧な対話による歩み寄りができることを教えてくれ、この作品の光のひとつでもありましたね。

松原:これまで遺族会は碑文を作ることを拒否してきたので、泉さんの中にも忸怩たる想いがあったと思います。藤井さんが遺族会会長となり、彼は善子さんの想いをずっと聞いているので、安江家に何度も足を運び、碑文を作ることについて泉さんにも説明を尽くしてこられた。その結果、お互いに理解することで、また一歩先に進むことができました。



■歴史が次世代の記憶に埋め込まれていく

━━━次世代に繋ぐということは本作のテーマの一つでもあります。

松原:証言者が少なくなる中、伝え継いでいくのは難しいと思う反面、ハルエさんのお孫さんたちを見ていると、このように歴史が次世代の記憶に埋め込まれていくのだと感じました。前作『ハマのドン』でも横浜の親分が、「死んだ人は、生きた人の口を使ってしゃべる」と言っていたのが確かにそうかもしれないと思ったのですが、満州から戻ってきた親を持つ子孫だと、あそこに集団自決の墓があったと思い出し、それがまた語りに繋がる。大きな水脈にはならないかもしれませんが、一つひとつ埋め込まれていくと感じます。


━━━ありがとうございました。戦後80年の今年、どんな想いでこの作品を届けたいですか?

松原:戦争は必ず起こした人がいるわけで、その結果、黒川開拓団の女性たちのような悲劇が生まれてしまう。戦争を起こしたら、必ず犠牲になる人がおり、その人たちの人生を奪ってしまうことを感じ取ってほしい。戦後80年というのは、そういう戦争の記憶を覚醒させるいい機会ですから、ご覧になった方自身の覚醒につながればと思います。

(江口由美)


<作品情報>

『黒川の女たち』

(2025年 日本 99分)

監督:松原文枝

語り:大竹しのぶ

2025年7月12日(土)~なんばパークスシネマ、MOVIX八尾、MOVIXあまがさき、MOVIX京都、7月18日(金)~京都シネマ、7月19日(土)~第七藝術劇場、元町映画館にて公開

公式サイト⇒https://kurokawa-onnatachi.jp/

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