『幸せの、忘れもの。』お互いの世界を尊重するために


 ろう者の世界を描く劇映画といえば、この3月に香港の青春群像劇『私たちの話し方』が日本で劇場公開され、好評を博しているところだが、スペイン映画『幸せの、忘れもの。』は、さしずめその先の先、つまり結婚したろう者が子どもを産むとき、そして産んだ後の家族に起きる変化と葛藤を、実にリアルに描いている。それもそのはず、主人公アンヘラを演じるろう者の俳優、ミリアム・ガルロの実の姉が本作で長編デビューを果たしたエバ・リベルタ監督で、妹の長年に渡る実体験をこの映画に反映させているのだ。そこには聴者である監督自身が妹と接する上で感じたこと、体験してきたことも含まれているだろう。



 乾いた風が吹き抜ける自然豊かなスペインの田舎町、陶芸工房で働き、聴者の夫エクトルとふたりで穏やかな生活を送っていたろう者のアンヘラは、第一子を妊娠する。主言語が手話のアンヘラと手話で会話をするエクトル。病院でも医療従事者たちの話を手話通訳するなど、アンヘラに寄り添ってきた。アンヘラもろう者の仲間たちと過ごすひとときや陶芸に打ち込む時間を大事にしていたが、子どもを産むということが新たに多くの聴者と関わらなければいけない状況が生じてくる。そして何よりも、生まれてくる子どもは耳が聞こえるかどうかの心配も抱えての出産だった。



 誰しも初めての出産は生活に大きな変化が伴い、期待よりも不安の方が大きくなってしまうだろう。生活の一部だった仕事をしばらく休まざるを得ず、日頃はお互いに独立して暮らしている両親も、孫のためにと逆にアンヘラにプレッシャーがかかったり、無意識に彼女の尊厳が傷つけられるような態度を取ってしまう。特に途中まで医師の指示を通訳していたエクトルが、緊急のためその場を看護師たちに譲らざるを得なくなった出産のシーンは、いかに聞こえない人たちへの配慮が命の現場で希薄であるかを目の当たりにさせられるのだ。



 二人家族が三人家族になり、生まれた娘、オナが聴者であることがわかったとき、家族という一番小さな単位の中でもアンヘラは少数者になってしまう。ろう者の親を持つ子どもをコーダと呼び、コーダの葛藤を描く劇映画も作られているのだが、ろう者の親がどのように育てるのかという一番最初の部分を本作はつまびらかにしている。アンヘラにとっては母娘の絆をつなぐ生命線でもある手話と、夫のエクトルをはじめ、両親や保育所、はたまた公園と生活のあらゆる場で話される口語。オナがどのように成長していくのかの一端を見せながら、オナを産んでからより強い疎外感にさいなまれているアンヘラと、無自覚にその一端を担っているエクトルとのすれ違いさまを実にリアルに映し出している。



 アンヘラが補聴器をつけた雑音だらけの世界を体感させる後半のシーンでは、聴者側の押し付けが、彼女の日常である聞こえない世界を奪ってしまっていることも体感するだろう。聞こえる人のための設計がされている社会の中で、聞こえない人は見えない存在になってしまっていないか。お互いの言語を尊重するということは? 聞こえない世界で生きるろう者女性たちの人生の一部である妊娠、出産、パートナーとの子育てを映画で共有してもらうことで、彼女の心の揺らぎが波のように押し寄せてくる。その揺らぎの波を感じながら、お互いの世界を尊重するためにわたしたちが使うべき想像力を、少しずつでも豊かにしていきたい。



『幸せの、忘れもの。』

2025年|スペイン映画|スペイン語・スペイン手話(LSE)|99分

監督:エバ・リベルタ

出演:ミリアム・ガルロ、アルバーロ・セルバンテス、エレナ・イルレタ、ホアキン・ノタリオ

© 2025. Distinto Films SLU, Nexus Creafilms SL, A Contracorriente Films SL, Diverso Films AIE

2026年5月1日(金)より新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座ほか全国公開

配給:スターキャットアルバトロス・フィルム