『セメントの記憶』復興の現場で生きるシリア移民労働者の日常、過去を体感する。


内戦のイメージがあったベイルートだが、もう内戦が終わってから20年が経ち、復興の象徴のような高層ビルが立ち並ぶ都市になっていることを、本作を見て初めて知った。それでもまだ足りないかのように日々超高層ビルの建築が続いているこの街の建築現場で黙々と働いているのが、本作でクローズアップされるシリア移民労働者なのだ。ダイナミックで、美しいとさえ思えるような映像が映し出すシリア移民労働者たちの日常は、言葉なく、ただただドリル音や、作業音で溢れている。



かと思えば、不自由な彼らを象徴するかのように、ベイルートの海や空などが、壊れた建物の穴や、建築現場の窓枠によってフレームのように切り取られる。移民労働者たちの1日は昼間は地上高くで働き、夜になると建築現場の地下に潜るかのように消えていく。真っ暗で、水たまりがあるような地下が彼らの寝場所なのだ。夜7時以降外出することも許されず、レバノンの復興に力を貸しているのに、シリア移民への差別も厳しい。動画やテレビで目にするのは自国が破壊される姿。労働者というよりは半ば奴隷のような扱いをされている彼らの日常をカメラは注意深く映し出す。戦争で故郷を奪われた人たちが、戦争で破壊された街に新しい建物を築く。スクラップとビルトの狭間にいる彼らの悲痛な運命を映画は力強く、私たちの前に差し出すのだ。


毎日昇降機を上下するときに見えるベイルートの街。映画では労働者たちが語るシーンが全くない代わりに、ある男性のモノローグが挿入される。ベイルートに出稼ぎに行った父が戻ってきたときに、その手のひらからセメントの味がした。白い砂浜やヤシの木が描かれた絵の思い出を語った父の思い出は、ある瞬間に、全く違うセメントの記憶へと繋がっていく。


その記憶とは、家が爆破され、セメントの下敷きになったときのもの。ドリルでセメントを破壊する音と共に口の中に入ってきたセメントの粉の味が蘇る。シリアの内戦で戦車から聞こえる爆撃音と、コンクリートに穴をあけるドリル音、戦車のようにぐるりと方向を変えるクレーン車・・・。スクラップ&ビルトの垣根を超える衝撃に、これが日常の移民労働者たちがどんな環境で生きているのかをほんの一瞬でも体感できるはずだ。


決して感情を表に出さない労働者たちの目は何を見ているのか。その目に映る影をも映し出すカメラワークに驚かされるし、終盤のベイルートの路上も独特の趣向をこらした映像でみせ、生と死、光と陰、静と動、様々な対比のある作品を実に印象的なものにしている。監督は、政府軍に所属した元シリア兵で、自国民同士の殺し合いに加担することを拒否して、ベイルートへと亡命、今はベルリン在住のドキュメンタリー作家ジアード・クルスーム。サウンド・デザイナー兼プロデューサーのアンツガー・フレーリッヒは、本作の音楽編集についてインタビューで以下のように語っている。

映像素材を見ていて気がついたことは、労働者はまるで聾者のように静かであったことです。彼らのことを気にかける人はベイルートには誰一人といません。彼らの声を届けるジャーナリストも現場には不在です。そして何より、彼らが不平や不満を言ったところで、彼らの状況を悪化させることはあっても改善することはないのです。彼らは希望だけでなく絶望すら彼らの中に閉じ込めているのです。私たちは浜辺の波打ち際の音はどこか切なく彼らの心境を強調するものと感じ多様しました。音響は労働者のルーティーン的な日常に重なり、破壊や絶望のマントラとして作中に鳴り響きます。液体セメントの映像にはめられた波の音は、ある人にとっては地中海へ引きづりこまれ溺死する音を想起させることもありますし、海を越えヨーロッパへ渡る事を夢見る労働者の希望を感じさせるかもしれません。  


セメントの音と波の音。労働者たちの声は聞こえなくても、単なる労働映画や戦争ドキュメンタリーではなく、リアルさの中に祈りのような気持ちが込められている作品。シリア移民労働者たちだけでなく、世界中のセメントの記憶がこれ以上増えてほしくない。そんな強い気持ちをヒシヒシ感じた。






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