「映画を観た後は、現実社会に持ち帰って考えてもらいたい」『ある殺人、落葉のころに』三澤拓哉監督リモートインタビュー


 湘南・大磯を舞台に、閉ざされたコミュニティで生きる4人の若者の不穏な日々を描いた群像劇『ある殺人、落葉のころに』が、4月24日(土)から大阪シネ・ヌーヴォ、京都みなみ会館にて絶賛公開中だ。(元町映画館では近日公開予定)

 昨年の第15回大阪アジアン映画祭でJAPAN CUTS Awardに輝いた本作は、ヒリヒリとした空気が漂う若者たちの歪な関係性を軸に、その周囲における人間関係の不和や、現代社会の闇を想起させられる意欲作。

 今回は、4月24日にシネ・ヌーヴォで行われたリモート舞台挨拶に合わせ、三澤拓哉監督にリモートインタビューを敢行。茅ケ崎の恋愛群像劇を描いた長編デビュー作『3泊4日、5時の鐘』とは異なる作風で、映画作りに挑んだ監督に、その制作秘話を伺った。



――――まずは、本作の制作経緯やきっかけを教えてください。

三澤:(舞台挨拶では、同世代の作り手に刺激を受けて「表現を突き詰めたい」という課題意識を持ったこと、前作のロケ地だった老舗旅館のオーナーから「大磯での撮影」を提案されたことの2点を話しましたが、)別の話をすると「狭いコミュニティで膠着した関係性の生きづらさ」をテーマにしたいという気持ちがありました。

一番、最初に思いついたのがカツアゲのシーンです。狭いコミュニティゆえに「要求するのではなく、そこにいるから出す」といった阿吽の呼吸のような関係性、お互いの人間性を知っているからこその生きづらさというものを表現したいと思いました。



■世界の縮図としての「湘南」地域

――――前作『3泊4日、5時の鐘』の茅ケ崎と本作の大磯、監督の作品では、一貫して自身の故郷である「湘南」地域が舞台になっています。そこに対して、こだわりなどはありますか。

三澤:(「湘南」地域は、)自分自身が生まれ育ち、今も住んでいるホームタウンであり、思い入れもあれば、苦い思い出もあります。そのため、映画を作る中で自分の感情を整理したり、自分の居場所を再構築することもあり、制作するプロセスを大切にしています。

また、本作では、湘南地域を世界の縮図・箱庭のように考えて、表現することを心掛けていたため、海外や国内の大きな問題を移し替えて描いている部分があります。


――――劇中では、車窓の景色として映る"黒い袋の山"や、地震や停電を想起させる描写が登場しました。個人的には「震災」の影響を感じたのですが、監督自身に意図はあったのでしょうか。

三澤:その通りです。自分としては、311以降における社会の可視化された問題として、意識していました。前作『3泊4日、5時の鐘』で映画祭に参加した際、海外の映画人が自国の問題やパーソナルな部分に踏み込んだ表現をしており、そこに触発された部分はあるかもしれません。



■プロデューサーへの道から、思わぬ形で映画監督に……。

――――もともと映画の作り手になる予定はなかったという三澤監督。ミュージシャンで俳優の宇崎竜童さんと出会ったことをきっかけに監督の道へ進んだと聞きましたが、なにか、映画を撮ろうという心境の変化があったのでしょうか。

三澤:実は宇崎さんと出会って、「映画監督になろう」と思ったわけではなく、その前に「映画の作り手として関わりたい」という気持ちがありました。その後、日本映画大学に入学し、実習を受けるうちにプロデューサーへの興味を強く抱くようになり、勉強のため、「和エンタテインメント」(深田晃司監督『ほとりの朔子』などを配給)でインターンをしていました。そんな折、会社から『3泊4日、5時の鐘』の企画を打診されたことで、監督として映画を制作することになりました。


――――もともと、プロデューサーとしての活動を目指していたとのことですが、監督の経験をしてみて、新たに発見した視点などはありましたか。

三澤:「こんなに、自分って、わがままになれるんだ」と思いました。まぁ、お前は、毎回毎回わがままだって思われるかもしれないですけど。(笑)

必要なものをスタッフに言えば、用意してくれますし、自分のエゴを発見したり、性格が変わったような気もしますね。



■不穏な空気感を支えた音楽と役者陣の熱演

――――劇中では、不穏な空気感を醸し出すギターのベース音が印象的でした。監督の「映画内での音楽のこだわり」について、お聞きしたいです。

三澤:難しいですね……。(笑)

まだ、確固としたものはないのですが、感情に寄り添いすぎた音楽や説明的なものは、なるべく避けたいなとは思っています。

小規模の映画では、音楽などに時間をかけることは難しいのですが、前作同様、岩本エイジさんに音楽を担当していただいたことは幸運でした。

彼は私の近所に住んでいるということもあり、頻繁に会いつつ、「音楽で何を表現できるのか」という部分に関して、脚本の早い段階から話し合うことが出来ました。また、完成した楽曲を聴きながら、編集が出来たことも大きかったです。

音楽を後から入れる多くの映画制作と異なり、本作では、音楽があることで作品のテンポを引っ張ってもらいました。そういう意味で「映画」と「音楽」を対等な関係として制作を進めることが出来たのは良かったと思っています。


――――劇中では、良い意味で「嫌な感覚」を抱かせる不穏な雰囲気が印象的でした。この空気感を作品として表現する際に、こだわった点などはありましたか。

三澤:各キャストとしっかり話せたこと、カメラマンが優秀だったことは大きいと思います。

ただ、漠然とした雰囲気ではなく、最終的に受け手に届くよう、それぞれの視線のやりとりや、表面に表れない心情の部分は重視したので、演出はもちろん、演技では、具体的にそれぞれが関係しあっていることを意識してもらいました。

例えば、作品の序盤では、ポーカーのシーンが登場します。4人の若い男がポーカーをする中、メンバーの一人である英太の彼女・沙希がやってきて、集団のリーダー格・和也がイライラするという場面なのですが、残されたメンバーの知樹と俊は、とりつくこともなく、顔に緊張が走り、和也の様子を見ることが出来ません。

このことからも第三者のリアクションを重視したことが分かると思います。



――――役者陣の演技に対して、監督自身にも明確なビジョンはあったと思うのですが、良い意味で予想を裏切られた部分などはありましたか。

三澤:役者陣の「顔の力」ですね。

例えば、劇中、倉庫で電球が切れる場面での森優作さんには「ただ物体としてそこにいる」ような存在感がありましたし、全編通して中崎敏さんからは、異物のような感じを受けました。そんなことを言うと、本人は嫌がると思いますが。(笑)

守屋光治さん、永嶋柊吾さんも含めて、4人のキャスティングのバリエーション、それぞれの人も含めて、4人のキャスティングのバリエーション、それぞれの人物像の良さが引き立っていたことは良かったと思います。


――――本作では、監督自身がノートに文字を書き、ある登場人物がそれを読み上げ、その内容を登場人物が表現するという三層構造で物語が進んでいきます。特に、監督ご自身が登場するメタ視点のパートが心に残ったのですが、この部分は、制作当初から予定されていたのでしょうか。

三澤:実は、その部分は制作終盤に決まりました。メタ構造になることは考えており、当初は、知樹のモノローグで「揺れ動く現実感」を作品の基調にしていたのですが、かねてより、「社会的に踏み込んだもの」を表現したいという気持ちがあったことで、フィクションとして閉じてしまわないよう、内容を変更しました。

自分が観客と映画との懸け橋になり、現実感を揺らがせるために、書き手として「出るか」と……。一肌脱ぐみたいな言い方しちゃいましたけど。(笑)



■観客の意見から発見したこと

――――映画祭含め、本作は、これまでにも上映される機会が多々あったと思います。観客の意見で、予想外だったことや驚かされたものはありましたか。

三澤:どの作品でもそうなのかもしれないですが、映画の感想には、受け手の世界観が色濃く出ると思っています。

特に本作では、余白が多い分、自分自身を差し出しながら観なくてはいけないので、観客の中に生まれる異なった「映画像」の割合が、3分の1、もしくは、半分を占めていたかもしれません。

実際、茅ヶ崎で行った先行上映の感想会では、皆さんの意見がバラバラで本当に同じ映画のことをしゃべっているのかと疑うぐらい……。(笑)

しかし、皆さんが、それを面白がっていることも感じましたし、その時に初めて、映画が作り手の元から離れ、独り立ちするのだなと感じました。

ちなみに、香港で上映した際には「311」に絡めた質問などもあり、より「香港から見る日本像」という視点で鑑賞している方が多い印象でした。



――――劇中では、男性4人の関係性のみならず、周囲に登場する女性の描き方も印象的でした。観方によっては、日本社会の負の側面を背負わされているようにも感じる彼女たちですが、監督は、その点に関して、どのようにお考えでしたか。

三澤:本作では、男たちのまなざしや噂話によって、その人の人物像が決まってしまいます。もちろん、劇中の登場人物の誰しもが、自己の在り方を周りから決められているという部分はあるのですが。

被害に対してアクションを起こそうとしているのに口封じをされてしまう沙希だったり、誰にも助けを求められず、行き詰まり感を感じている和也のお母さんであったり、2人は対として考えていましたが、その一方、謎に包まれた女性・千里は、色んな人の負の欲望を投影した入れ物のように描いていました。



■タイトルに隠された秘密とは

――――『ある殺人、落葉のころに』というタイトルについて質問です。「ある殺人」という部分に関しては、本編を観ると様々な憶測が出来ますが、その部分に関して、監督自身のご意見を伺いたいです。

三澤:観客から出た意見でも「登場人物たち全員が精神的に死んでいる。」といったものや、「全員が気持ちを押し殺している。」というものがあったのは、驚きました。(笑)

実は、もともと『落葉のころ』というタイトルだったのですが、本作のプロデューサー・編集を共同で担当した黃飛鵬(ウォン・フェイパン)から「もう少し、内容が想像できるタイトルの方が良い」という提案があり、現在のタイトルになりました。その結果、「殺人」や「死」というものについて、自分自身も改めて考えるきっかけになったと思います。

また、冒頭の質問では、カツアゲのシーンについて、狭いコミュニティゆえに「要求するのではなく、そこにいるから出す」という関係性をお話しましたが、このタイトルについても「自分たちが殺人を探しているから殺人事件が成立してしまう」という、因果関係が逆転した世界観を結果的に表す格好になったように思います。



――――「フィクションの中で現実の問題を取り扱うこと」について、監督はどう思っているのか、また、映画を制作する際、その部分に対して、どのようなスタンスをとっているのかについて、お聞きしたいです。

三澤:例えば、社会的な問題や課題を、フィクションで撮るのか、ドキュメンタリーで撮るのかという議論があります。しかし、自分というものを介して語る時点で、形はどうであれ、フィクション性を帯びてしまうことは避けられないと思っています。

この作品においては「不確かさ」を重要視しているので、結論めいたことや事件の解決はもちろん、登場人物には、明確なハッピーエンドやバットエンドは与えられません。

しかし、今作で描いている社会的な諸事は語りきれないからこそ、考えなければいけない問題でもあります。

映画を観た後は、現実社会に持ち帰って考えてもらいたいので、劇場を出てからも、すっきりしないでもらいたいです。(笑)



今回のリモートインタビューを行った4月24日は、折しも、3度目の緊急事態宣言が発令され、各映画館が休館や時短営業など、その措置に追われる1日であった。この社会は、簡単に答えが出ないことや明確な正しさを定められない「不確かさ」だらけだ。しかし、そんな時代だからこそ、観客次第で見え方の異なる本作が、出会うべき多くの人々に届いてほしいと切に願っている。(大矢 哲紀)


<作品情報>

『ある殺人、落葉のころに』“The Murders of Oiso”

2019年/日本・香港・韓国合作/79分

監督・脚本:三澤拓哉

出演:守屋光治、中崎敏、森優作、永嶋柊吾

4月24日(土)から大阪シネ・ヌーヴォ、京都みなみ会館にて絶賛公開中。元町映画館では近日公開予定。

https://oisofilm.com/

(C)Takuya Misawa&Wong Fei Pang