『逃げた女』止まっていた私の中の時計の針が動き出す


結婚以来5年間一度も夫と離れたことがないと、主人公のガミが呪文のように繰り返す。そのたびに、彼女の先輩たちや友人は驚きの表情をみせる。ごく当たり前のリアクション、私だってそんなのありえない!と即答するだろう。愛を盾に一緒にいることを説き続けている夫のもと、それまで抑圧されてきたものを抱えているのではないかと。


ホン・サンスとキム・ミニのコンビが世に放つ男と女の観察映画ともいえる作品群の中でも、群を抜いて女の生き方にフォーカスしたと言える『逃げた女』(第70回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作)。夫の出張で結婚後はじめて友人たちを訪ねていくガミを追いかけながら、訪れる先で心機一転の人生を送っている女たちの本音や人生の価値観を探っていく。若い頃の失敗や苦労を経て、自分が心地よいと思える場所を作り上げた40歳前後の女性たちの表情が、とても素敵だ。



郊外で土をいじれる畑を持ちながら、新しいマンションで同居人のいる暮らしを楽しむバツイチの先輩ヨンスン。信頼関係があるのか、ガミは離婚した状況やその後のことを積極的に聞いていく。夫と別れ、自立し、マンションの向かいに住む、父と二人暮らしの若い女ともささやかな交流を重ね、野良猫の世話をする。それがために、引っ越してきた若夫婦の夫から苦情を言われてもひるまない。時計の針を着実に前に進めて生きているヨンスンがガミの目にはどのように映っていたのだろうか。



山つながりのショットで、二番目に訪れるのはアーティスト気質の先輩、スヨン。きままな独身生活の恋話を聞きながら、ガミの目はどこか遠くを見ているよう。女子会の中でも、いい男がいない、特に韓国とぶった切るあたりは、痛快だ。恋も仕事も自由に楽しみ、それがもとに面倒なことが起きてもひるまない。一方、スヨンから夫の仕事ぶりについて聞かれたガミは翻訳者でほぼずっと家で仕事をしているという。それって、まるでコロナ禍で夫が突然リモートワークになったという状況が常にということではないか。さらりと語られるセリフの中に、ガミの置かれた状況への想像が少しずつ蓄積していく。



そして3人目の訪問からが、ある意味この映画のメインとなる。それまでほとんど明かされなかったガミの過去が、キム・セビョク(『はちどり』)演じる旧友、ウジンとの会話や仕草の端々から匂いたつ。ガミの心の中でずっと止まっていた時計の針が前に、後ろにと動きはじめたとすれば、それは彼女にとって変化を遂げる準備ができた証だ。たとえ家族や愛するパートナーがいようとも、”逃げる”ことができる場所と時間はやはり必要。過去のしがらみから、仕事や家族から、様々な自分を取り巻くものから逃げるとき、新しい道が見えてくる。連作のような味わいと、迷い揺れるガミの心を繊細に表現したキム・ミニの抑えた演技が秀逸な逃げた女たちの物語は、年を重ねたからこそ実感できる人生の妙味に満ちていた。



『逃げた女』”도망친 여자/THE WOMAN WHO RAN”

(2020年 韓国 77分)

監督・脚本・編集・音楽:ホン・サンス

出演:キム・ミニ、ソ・ヨンファ、ソン・ソンミ、キム・セビョク、イ・ユンミ、クォン・ヘヒョ、シン・ソクホ、ハ・ソングク

配給:ミモザフィルムズ

6/11(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺、京都シネマ、6/18(金)よりシネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸ほか全国順次公開

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