天草の精神性を探りながら、目に見えない豊かなものを描く 『のさりの島』山本起也監督インタビュー


 熊本県天草地方に古くからある言葉であり考え方である「のさり」。この説明しがたいものを描く、京都芸術大学映画学科でプロのスタッフと学生による映画製作プロジェクト「北白川派」の最新作『のさりの島』が、京都シネマで公開中。大阪は7月16日よりシネ・リーブル梅田で、神戸は7月23日よりシネ・リーブル神戸で、ほか全国で順次公開される。

 監督は現在同大学教授で映画監督の山本起也(『カミハテ商店』)。オレオレ詐欺を繰り返し、島にたどり着いた青年、将太に『佐々木、イン、マイマイン』『くれなずめ』など主演・出演作が相次ぐ藤原季節。詐欺をするために来店した将太を孫のように受け入れ、共同生活をする楽器店主のばあちゃんこと艶子に、本作が遺作となった名女優、原知佐子と実力派が顔を揃えるほか、杉原亜実や小倉綾乃らフレッシュな顔ぶれが本作の重要な要素でもある響きを体現している。島に流れるゆったりした時間、そこで生きる若者たちそれぞれの決断、そしてかつてそこに生きてきた人たちの気配。将太とともに、そこに静かに漂うものに目を凝らし、耳を澄ませたくなる。不安感が世の中を支配する今、天草の「のさり」に触れることで、心をほぐれ、優しい気持ちになれるのではないだろうか。小倉綾乃が劇中やエンディングで吹くブルースハーブにも注目してほしい。

 本作の山本起也監督にお話を伺った。



■「そういう話、天草ならあるかもしれんばい」と言える天草の精神性が重要だった

―――北白川派は京都で撮影することが多いですが、今回は、プロデューサーで京都芸術大学の副学長を務める小山薫堂さんの勧めがあって、天草を選んだのですか?

山本:僕は全然知らないところに行き、その場所を最大限に活かして自分の映画を造形していくのが好きなので、いつもできるだけ遠くに行きたいんです。今回はオレオレ詐欺の話で、そういう作品に対して積極的に協力してくれそうな場所がなかなか見つからなかったのですが、僕が熊本を訪れ、天草が映画の舞台としての雰囲気を持っていたことから、薫堂さんに天草で映画を撮りたいと話をしに行きました。薫堂さんもすぐ話に乗ってくださり、天草で市民の方を10〜20人ぐらい集めて、映画のことを説明する会を設けてくれたのです。

今までの苦い経験からドキドキしながら映画のプロットを話すと、天草のみなさんはニコニコしながら聞いてくれ、僕の話が終わるやいなや、「そういう話、天草ならあるかもしれんばい」と。オレオレ詐欺の男が来ても、家にあげて、ご飯を食べさせるようなおばあちゃんがいっぱいいると盛り上がった。僕は、天草を単なるロケ地として考えていたけれど、そこにある精神性や、そんなおばあちゃんがいっぱいいると言ってくれることが重要なのだと気づきました。映画は所詮嘘話だけど、ここで撮ることで僕自身がこの嘘を信じられるのではないか。それには、僕が天草の精神性を探り、そこに近づいていかなければいけないと思い、脚本も現地のことを取り入れ大幅に変えました。


―――なるほど。それで『カミハテ商店』に引き続き、京都から離れた僻地での撮影となったのですね。

山本:つけ加えて、学生たちと映画を撮るので、京都だと撮影後に家へ帰り、いつもの自分の生活に戻ってしまう。京都から出て合宿生活することで、自分のプライベートからも断絶され、撮影に集中できる環境を作るのがすごく貴重なのです。やはり若い時に同じ釜の飯を食うような経験をしてほしいですから。


―――今回は、ばあちゃんの住居兼店舗である楽器店が舞台になっていますね。

山本:例えば舞台を八百屋にすると、藤原季節さんが演じる若い男を連れて、店主は市場に仕入れに行かなければいけないので、そこで彼の素性がバレるのでは?とか、さまざまな職業とそれから起こりうることを考えました。また、天草の銀天街を舞台にする時点で、ある程度使わせていただける店舗は限られるんですね。そこにたまたま、一軒の楽器店があった。この映画では、直接的で利害的な関係性ではなく、間接的に影響しあう関係性を「音」で表現したいと思っていたので、楽器店が舞台というのはいいな、と思ったんです。直接的ではなく間接的なつながりの方が、むしろこの世界を大きくかたどっている。そこに介在するものとして、音を使おうと思っていたのです。



■共振する中に自分たちがいることを感じられる映画を撮りたい

―――音といえば、杉原亜実さんが演じた清らはラジオパーソナリティで、日々その語りがラジオから流れてくる。そんな天草の日常がとても豊かに感じました。

山本:清らは、どこの誰が聞いているかどうかわからないけれど、自分はどこかで聞いてくれていると信じて毎日、声を届ける。そんなキャラクターです。音という意味での極めつけは、小倉綾乃さんが演じる久美子が毎晩、シャッターの前でで吹くブルースハーブです。久美子はただ勝手に吹いているだけなのですが、原知佐子さんが演じた楽器店種の艶子にとっては、それを聞くのが毎晩の日課になっている。こういう関係って、素敵なだと思うんですね。実利的、直接的なものに寄りすぎるのではなく、波動が伝わる関係といいますか、共振する中に自分たちがいることを感じられる映画を撮りたかった。そのすれ違いが、ラストで出会う。「こんな素晴らしい終わりはない」と撮影していて感じました。


―――ブルースハーブの音色の圧倒的な凄さに、何度も聞き惚れましたが、小倉さんとの出会いは?

山本:5年ほど前、僕が教えている学生たちが卒業制作の撮影で岡山に行ったとき、当時高校生だった小倉綾乃さんと知り合い、作品に出演してもらったのです。その作品を観たとき、すごいブルースハーブの音色が聞こえてきたので、誰が吹いてるか聞くと、「岡山の高校生ですよ」と。その印象が強かったので、機会があれば映画に出てもらいたいと思い、今回、その学生を通じて小倉さんに声をかけたんです。彼女は上京しており、こちらのオファーに対し、ぜひやりたいと言ってくれましたね。



―――エンディングでは劇中よりもさらに高度なテクニックを使い、見事なセッションが繰り広げられていましたね。

山本:本当にスリリングな音楽ですよね。谷川賢作さんと藤本一馬さんとのセッションだったのですが、谷川さんは小倉さんに「こちらの演奏は聞くな。好きに吹いてくれたら、こちらが合わせたり、離れたりするから」と指示を出していました。だから彼女は感じたままに吹いた結果が、あのエンディングでしたね。僕はハラハラしながら聞いていましたが(笑)


―――藤原季節さんが演じるオレオレ詐欺の男、将太は、映画では主役でありながら狂言回し的な役回りで、彼の過去は一切明かされません。

山本:『止められるか、俺たちを』(白石和彌監督)のプロデューサーで本作のラインプロデューサーの大日方教史さんが藤原さんを推してくださったので、お会いしすぐにオファーしました。将太については、藤原さんとも「こいつ、どこから来たんだろうね。東京かな、大阪かな」などと話しながら将太を造形しましたが、詳細は明かされません。でも、それでいいと思います。映画の中には、必要な情報と、言ってしまうと観る側の想像力を阻害してしまう情報がありますから。


■監督の仕事は俳優が役になるための環境を作ること

―――藤原さんは『佐々木、イン、マイマイン』でも主役を演じていましたが、とてもバランス感覚がある俳優ですね。

山本:とてもクレバーな人です。ときどき何か面白いことを仕掛けてくるのですが、決して映画のラインを乱すようなことはやらない。今回、例えば楽器屋のばあちゃんの家で居候するようになった将太が、最初は洗濯物を部屋干ししていたのが、屋上で干すようになり、また部屋干しに戻るという設定をこちらから提示しました。ただ、どう干してとか、そういう指示めいたことは言いませんでした。それを活かすのは藤原さんなので。洗濯物の干し方を工夫したり、屋上にブランコを置いておくと帰り際にポンと蹴るなど、彼の振る舞いは「説明」ではなく、男の心境を観客に想像させるんですね。僕はそれを楽しみながら見つめていました。僕の仕事は、彼が将太になっていくための環境を作ることだと思います。

僕はよく、高橋伴明監督に演出のことを聞くのですが、伴明さんは俳優から演技の提案をされたら、「じゃあ、一度やってみせて」と返す。先に相手に一発目を打たせるのがうまい監督なんです。それを見てからOKとか、ここをもうちょっとこう、という形で演出していく。僕もできればそうありたいなと。俳優さんにとっても、自分の提案が採用されるのは、モチベーションに繋がっていくでしょうし。



■原さんの出演に感じた「佇まいがセリフを上回る何かを物語る」

―――『カミハテ商店』のときは、高橋惠子さんにもっとゆっくり歩くようにと指示されたそうですが、今回、ばあちゃんを演じた原知佐子さんには何か指示されたことはあったのですか?

山本:80歳を過ぎて、真冬の天草で撮影するというのはリスクが高く、キャスティングも難航しましたが、原さんは快諾してくださいました。ただ、しばらく映画の現場を離れていて、今回久しぶりの撮影だったので、最初はセリフがすっと出てこなかったのです。咄嗟のアドリブも交えた、大げさでしつこい感じになってしまった。でも今回はさっぱりしたばあちゃんになってほしいので、OKを出さなかったんですね。ところが、昼休みの時間に修正し、午後の撮影からはすっかり切り替わっていたんです。たった1時間で修正してくださったのはすごかったですね。原さん世代の俳優さんは、その役柄がどういうラインかを掴めば、すぐに適応できる訓練ができているのでしょう。残念ながら原さんの遺作となりましたが、一方で代表作になったのではないでしょうか。セリフだけで映画を語るのではなく、佇まいがそれを上回る何かを物語っている。原さん自身の魅力が出ています。



■嘘やまやかしは、間口が広い、優しい概念

―――後半登場する「まやかし」が、映画のキーワードでもありますね。

山本:天草にたどり着いた将太が、この数日間は自分にとって何だったのかと反芻し始めるのは、映画が終わった後、彼のこれから生きる時間の中での作業だと思うんですね。それが、たった2時間の映画の中で、懺悔や改心などされたらたまったものではないわけです。天草の潜伏キリシタンの話を入れるのは、そういうわかりやすい懺悔話になってしまうという危惧がありました。それを薫堂さんに話したところ、薫堂さんが人間国宝の方と会った時の話をしてくださったのです。薫堂さんが、その方の作る漆の器だったかな、それが素晴らしいと伝えると、人間国宝の方は「しょせん、まやかしですから」と答えたそうです。それを聞いた時に、まやかしという言葉であえて自分の作品を評したその方の感性が、とても良いなあと感じたんです。

つまり、嘘やまやかしはネガティブに使われることが多いけれど、その反対に「本当?」と問われるのも結構、その人にとっては辛い言葉、概念ではないかと思うのです。一方、嘘は「嘘も時には必要だね」とか、ある意味優しい概念だと思うのです。まやかしも同様で、「本当」よりも間口が広い、優しい概念だということを描きたかったですね。まやかしという一見、皆が「えっ?」と思うようなことでも、誰かにとっては必要かもしれない。


―――タイトルにもある「のさり」は、確かにはっきりとした形があるものではなく、何か目に見えない特別なことを指し示しているのでしょうか。

山本:自分の価値が正しいと思い込み、それに反する人、自分と違う人を許容できない息苦しさに対し、のさりというのはまさに真逆の概念です。「良い、悪い」「儲かった、損した」と言った、自分を基準とした実利的な価値基準ではなく、大きなものの中で、全てが生かされている、という感覚なんです。そこで起きたことは、偶然のようで実は必然なんだ、という、自分の基準ではないもので、自分の人生を捉え直していく作業なんですね。そう考えると、この映画もすべて、「のさっとる」人の話です。おばあちゃんの家にオレオレ詐欺男がやってきたのも「のさり」ならば、詐欺に行った男がおばあちゃんにご飯をご馳走になるというのも「のさっとる」わけで、のさりはまやかしの持つ許容の広さにつながっていくのです。



■撮影初日、藤原季節の“ジャブ”に「彼も監督の僕との距離を測ってきた」

―――いわく、説明し難いものがたくさん含まれた作品ですが、キャストのみなさんはどのようにこの世界観を掴んでいったのですか?

山本:僕自身はあまりそのあたりを説明しなかったように思います。藤原さんは天草の人とたくさん話をしてその感性を掴もうとしていました。実は撮影初日が商店街のシーンで、営業していたお店のいくつか、シャッターを閉めてもらうようにお願いしようとすると、藤原さんから「監督が今まで天草の人たちと築いてきたことと、撮影に都合が悪いからシャッターを閉めてくれというのは矛盾する」と指摘されたのです。天草の人と作り上げるのを大事にするのなら、シャッターを閉めてというのは筋が違うと、いきなり藤原さんがジャブを打ってきた。そのとき、彼も監督の僕との距離を測ってきたと思ったのです。この監督はどんな監督なのかと。

ここで下手な小細工をして彼のジャブをかわそうとすると、これから2週間続く撮影が辛い試合になる。そう思って、開いているお店はそのままにし、あるがままの商店街の姿で撮影しました。そこで彼のジャブを受け損ねずに済んで、よかったと思っています。監督の仕事は、ただこういう画を撮りたいということではなく、スタッフや俳優との間合いや距離を含めて現場を作っていくことだと思うんです。単に画のことばかりを考えていると、思わぬジャブを食らい、辛い仕事になるでしょう。


―――映画で登場する映画館、本渡第一映劇には往年の高倉健さんの映画ポスターがずらりと貼られていましたね。ここで市民のみなさんが天草の過去に出会うのも本作の醍醐味です。

山本:かつて高倉健さんが本渡第一映劇に来場されたことに館主がいたく感動し、それ以来ずっと高倉さん出演作のポスターで館内を埋め尽くしておられます。撮影にあたり、権利の問題でこのポスターを外すのは忍びないと思い、高倉さんのご遺族に手紙をしたためて許可をお願いしたところ、全てOKですからそのままお使いくださいと。

今回は昔の映像を持ち寄り映画館で上映をするという設定だったので、実際に昔の映像を探しました。すると、地元の8ミリ愛好家が、1964年東京オリンピックの年に天草で発生した大火から復興までをすべて記録しまとめたフィルムが出てきたんです。それがアーカイヴとして市に寄贈されていたので、映画で引用させていただこうと脚本を書き直しました。市民のみなさんもこの映像の存在をご存知なかったので、エキストラで参加し、かつての天草の映像を突然目にして泣いている方もいらっしゃいました。


■何かが抜け落ちたイメージの連なりに、よく耳を傾け、イメージを働かせる

―――まさに島の歴史が見えてきますね。映画全体を通して見えないものに触れるような空気感が、とても心地よかったです。

山本:焼けてなくなったといえば、この映画に登場するものは全て、何かが欠け落ちているものばかりです。ばあちゃんにはある喪失がありますし、将太もどこか過去が抜け落ちている。昔は人がたくさんいた商店街に今は誰もいなくなってしまった。そういう何か抜け落ちたというイメージの連なりの中で、でも、よくそこに耳を傾けてみると、その商店街から昔の賑わいが聞こえてこないだろうか?と思うわけです。目に見えなくても、直接的な手触りを感じ得なくても、どこかで世界は繋がっている。そんな、目に見えないものにもイメージを働かせるともっとこの世の中は豊かなものに満ちている。(映画で登場した)案山子だって、どこかで動き出すかもしれませんから。

(江口由美)



<作品情報>

『のさりの島』

(2020年 日本 129分)

監督・脚本:山本起也

出演:藤原季節、原知佐子、杉原亜実、中田茉奈実、宮本伊織、西野光、小倉綾乃、水上竜士、野呂圭介、外波山文明、吉澤健、柄本明

6月11日より京都シネマ、7月16日よりシネ・リーブル梅田、7月23日よりシネ・リーブル神戸ほか全国順次公開

https://www.nosarinoshima.com/

(C) 北白川派