『ミス・マルクス』怒りを込めたロックが鳴り響く、あるヒロインの半生


 ここのところ様々な分野での女性の先駆者たちの半生を力強い作品が増えてきた。それは、中には偉大なる夫の陰で、支えてきた妻であったり家族という例も多い。実際は妻が書いたものなのに、夫の名前で出版されることもざらにあったのが、つい1世紀ぐらい前までのことだった。本作では「資本論」で知られる哲学者、経済学者のカール・マルクスの六女で、自身も労働者の権利や女性の権利の向上に力を注いだエリノア・マルクスの波乱の半生をビビッドに描いている。19世紀後半が舞台の物語なら、通常は歴史映画というくくりの中、落ち着いた色合いの、クラシカルな雰囲気で展開しそうなものだが、本作はその枠からはみ出そうとしているところが斬新だ。あえてその枠を超越することで、エリノアの怒りや戸惑いが自分ごとのように感じられる。単なる偉人伝ではなく、観る者に人間の矛盾や弱さすら突きつけるのだ。




 父、カールが存命時代は父の愛を受ける一方、父の仕事を手伝い、死の間際には看病もしていたエリノア。病のため早くして逝った姉の息子、ジョニーの面倒も見ていた。だが、彼女はすでに彼女自身が男社会の中でも確固たる地位を確立し、その代表として海外に派遣されるだけの実力を持っていたのだ。ドイツ社会主義労働者党より任命されたアメリカでの視察と講演の旅に同行したのは、劇作家のエドワード・エイヴリング。別居中の妻がいたにも関わらず、彼に惹かれ、自らアメリカへの同行を求めたエリノア。結婚が古臭い制度だと宣言し、正式な結婚はせずに妻として生きることを宣言する。浪費家のエドワードと一緒になることを父の盟友、フリードリヒ・エンゲルスらは反対するが、エリノアは聞く耳を持たなかった…。




 父と一緒に家族で大いなる学びを得ていた古き良き時代は逆に、彼女の人生を否が応でも選択させられる時期でもあった。2つの時代を緩やかに行き来しながら、エドワードと共に生きる波乱の日々が綴られる。中でも、イプセンの戯曲『人形の家』を二人で演じている様子は、まるで夫婦喧嘩をしているかのように生々しく、エリノアの心の声ではないかと思うほど。相手の間と思っていたことが、実は自分の思う通りになることを知らず知らずのうちに強制させられていたことに気づいた時の慟哭。映画では演技としてこの後大喝采を浴びるが、演じながら、エレノア自身がエドワードの自分に対する真意に気づかなかったことが、後々の悲劇を生むことになってしまったような気がしてならない。




 女性の権利向上や、貧しいもののために力を砕いても、自らは金遣いの荒いエドワードの尻拭いをし、自分自身が搾取されていたエレノア。理想と現実。自らの志に反し、自分の置かれた立場は悪化の一途をたどってしまう。この矛盾こそが、ある意味うそ偽りのない人生なのかもしれない。エレノアの怒りをもしあの時代にロックがあったならと言わんばかりの激しさで踊り狂って表現してみせたロモーラ・ガライの演技、その裏にあった覚悟をどう解釈するのか。志半ばにしてこの世を去ったエレノア・マルクスの気持ちを今、改めて思う機会を与えてくれた作品だ。





<作品情報>

『ミス・マルクス』(2020年 イタリア=ベルギー 107分)

監督・脚本:スザンナ・ニッキャレッリ

出演:ロモーラ・ガライ、パトリック・ケネディ、ジョン・ゴードン・シンクレア、フェリシティ・モンタギュー、フィリップ・グレーニン

9/4(土)よりシアター・イメージフォーラム、新宿シネマカリテ、9月17日(金)からシネ・リーブル梅田、9月24日(金)から京都シネマ、10月8日(金)からシネ・リーブル神戸 にて公開。

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