『わたしたち』小学校時代の輝きとトラウマの記憶が蘇る

冒頭、クラス全員でドッジボールをしている。すぐに当てられて、コート外に出る女の子はおかっぱ頭、おでこを出して、少し小柄。このほんの数分で、小学校時代の自分がどんぴしゃりと重なり、胸が苦しくなってきた。今でこそ、身長も高くなり、マラソン大会にも出ている私だが、それも子どもの頃のトラウマを乗り越えたかったから。男女一緒のドッジボールでボールを当てられ、外に出たら最後、もうボールが私に回ってくることはない。戦力外人員だった。幸いなことに、それでいじめられることはなかったが、庇護される対象であり、運動面に関しては半人前扱いだったのだ。給食も食べるのが遅くて、給食後の掃除が始まってもまだ食べていたり(残すことがNGだった)、今から思えば本作の主人公ソンと私は、似ている部分が多いよな・・・。


ドッジボールシーンの衝撃で話がそれてしまったが、夏休み直前に親が離婚したことで転校してきたジアとソンとの友情に、クラスの中心人物ボラが絡んでくる小学生女子の物語は、女の子特有のグループ意識がリアルに映し出されている。子は親の映し鏡だが、そういう点ではソンがおとなしく、クラスでは目立たないながらも、他の子どもたちのように友達を作るため、相手を無視したり、態度を変えることなく、自分を見失わずにいられるのは、家計を支えるため必死で働きながらも子どもたちに目配りを忘れない陽気な母の存在が大きい。また夏休みにソンがジアを家に招き、ソンの弟と三人で宿題をしたり、遊んだり、ご飯を食べたりと何気ない、でもかけがえのない夏休みの様子を光をたっぷり取り入れ、瑞々しく描写。学校という人間関係が時々刻々と変わり、楽しい時もあれば辛い思いもする日常との対比が鮮やかだ。


友達の証であるお揃いのミサンガも、ソンとジアの関係の揺らぎを物語る。大人になればこそ、孤独を愛し、一人でいる時間の大事さを実感できるが、学校時代は孤独は「仲間はずれされたかわいそうな子」と見られ、そう見られるのがイヤで誰かと一緒にいたかった気がする。みんなで仲良くできればいいが、誰かをターゲットにすることで、それが踏み絵のように仲間とアンチ仲間を分けることが、どんどん低年齢化しているなとも痛感した。


イ・チャンドン監督と1年間一緒にシナリオを開発したという、本作が初長編のユン・ガウン監督。面談やワークショップ形式のオーディションを重ね、役が決まった後も、何度も子どもたちを集めて即興劇をしていたそう。そうやって子どもたちと一緒に作業をすることが楽しいというユン監督。子どもたちの行動や会話をしっかり観察し、シナリオにも取り入れたといい、ドキュメンタリーのようにリアルな本作の描写は、ユン監督の粘り強い子どもたちとの作業の賜物だと思う。


ドッジボールのシーンは、冒頭だけでなく、もう一度登場する。冒頭シーンは自分が重なったが、2度目のシーンでソンはぐっと成長していた。親友と思ったジアと仲たがいし、誤解を埋められない中、おとなしいソンのぶれない態度と勇気は、彼女を軽んじて見ていた周りの子どもたちに大きな衝撃を与えたはずだ。その勇気は、きっと大人になってもしっかりと記憶に残り、そして自信につながることだろう。小さな勇気が、全ての勇気の源になる。そんな姿を見せてもらった気がする。