教育と学問に対する政治の介入に鋭く切り込む。ドキュメンタリー映画『教育と愛国』斉加尚代監督インタビュー
2017年MBSで放映され、ギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞したドキュメンタリー番組「映像’17 教育と愛国~教科書でいま何が起きているのか」があらたに映画となった。斉加尚代監督と澤田隆三プロデューサーが追加取材と再構成を行い完成させた作品は、5年前よりさらに悪化した教育と学問の現場の今を鋭利に問う。映画版『教育と愛国』は、5月13日(金)から京都シネマ、5月14日(土)から第七藝術劇場、7月元町映画館 にて公開される。
大阪の教育現場を見続けてきた斉加監督だからこそ気づける視点と粘り強い取材で、教科書検定を巡る様々な事象の背景を考察。政治の介入や排斥運動に迫ると同時に、MBSの過去の取材映像から、政治が教育に介入する意思を明確にした決定的な瞬間を探し出し、フォーカスを当てた
また4月15日に刊行された斉加監督の新著「何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から」では、過去に制作した4作品(『映像’15 なぜペンをとるのか~沖縄の新聞記者たち』『映像’17 沖縄 さまよう木霊~基地反対運動の素顔』『映像’17 教育と愛国~教科書でいま何が起きているのか』『映像’18 バッシング~その発信源の背後に何が』)や、本作の舞台裏に加え報道現場の苦悩やバッシングの実態にも迫っている。
劇場公開を控えた斉加監督に、お話を伺った。
■報道記者や教科書の作り手のスピリッツが殺される前に、教科書検定の現況を伝えたい
――――本日発売された著書のタイトル「何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から」は非常にドキリとさせられますね。
斉加:最初は副題の「大阪発ドキュメンタリーの現場から」をタイトルにしていたのですが、ドキュメンタリー4番組の舞台裏を書き終えたとき、編集者からメディアと社会について書いているし、わたしが報道記者であったこともあり、現在のタイトルを提案されました。
わたしも現在のロシアやミャンマーなど本当に記者の命が奪われる強権国家があるなかで、「殺す」という言葉を使うことにある種の抵抗を感じたのですが、曰く「まったく無縁ではないですよね」と。確かに、命こそは奪われませんが、報道記者としてのスピリッツが殺されかけているかもしれない。また、殺されかけているのは教科書編集者も同様で、本来なら創意工夫し、執筆者と納得いくものを作るはずのものが、政府が求める記述に用語の書き換え、置き換えが行われているのが現状です。教科書の作り手のスピリッツもまた殺されるような状況がこのまま続いていけば、教科書そのものも、さらにその教科書を手に取り教える先生たち、その教科書で学ぶ子どもたちがどうなってしまうのか。ここで歯止めをと思うなら、今の教科書検定の状況を伝えなくてはという気持ちが強かったです。
■実は大きな意味を持っていた2012年の「教育再生民間タウンミーティング in 大阪」
――――コロナ禍で、今までの日常が奪われたことに気を取られているうちに、教科書では、加害の歴史がどんどん矮小化される記述に変わりつつあることを、改めて気づかされました。慰安婦問題を取り上げたドキュメンタリー『主戦場』の登場人物たちも勢揃いし、全てがつながっていると感じます。
斉加:わたしも作りながら、こちらの出来事とあちらの出来事はつながっていることに気づかされることが多かったです。例えば2012年2月に開催された「教育再生民間タウンミーティング in 大阪」で、下野していた安倍晋三氏とのちに日本維新の会代表になる、大阪府知事の松井一郎氏が固く握手をしていたのですが、当時は維新が推し進めようとしている教育改革に安倍氏が賛同したというぐらいの認識でした。そこから10年経ち、取材者のわたしにはどう連携していたかは見えませんが、今回の教科書用語の書き換えのきっかけを作っているのは日本維新の会ですし、起きた出来事を一つひとつ紐解いていくと、「あの握手は、大きな意味があったのだ」と痛感しました。
そのタウンミーティングで安倍氏は「(教育に)政治家がタッチをしてはいけないかといえば、そんなことはないですよ。当たり前じゃないですか」と率直に発言されています。「教育目標の一丁目一番地に、道徳心を培う」とも明言されましたが、その道徳心とはどのような定義や概念のものなのかと、本作を編集しながら考え込んでしまいました。
■教育取材の出発点は、「保健室登校」
――――少し話が遡りますが、本作の前から教育現場で取材をされてきたそうですね。
斉加:1989年、MBS報道局の記者になり、最初は取材の基礎を身につけるため、1年ほど大阪府警記者クラブで事件、事故取材を担当しました。1991年、初めて企画書を書き、自分の好きな取材ができることになったとき、保健室登校の子どもたちにカメラを向けたいと思い、様々な学校の保健室を取材したのです。当時は登校拒否という言葉が一般的で、学校に行きたいけれど教室に入ると気分が悪くなったり、教室に入れない子どもたちが、保健室で過ごしたり、ちょっと勉強したりする保健室登校という言葉や取り組みがようやく認知され始めたころでした。
――――印象に残っている取材はありますか?
斉加:生野区にある鶴橋中学校には、3ヶ月近く通いました。保健室にやってくるやんちゃな子からおとなしい子まで、様々なタイプの子どもたちと進路の話もしたのですが、卒業式の日、先生の手を焼かせていたある生徒が号泣し、保健室の先生の名前を呼んで「がんばれよ!」と逆にエールを送り、巣立っていったのが忘れられません。先生に苦労をかけていたことがわかっていて、そんな自分にしっかりと向き合ってくれたという感謝の気持ちを、そんな形で表現したんですね。
今でも連絡を取り合っていますが、現在の学校現場の締め付けが厳しい状況を話すと「社会に出たらいくらでも締め付けが厳しくなるのだから、中学校のときぐらい、できるだけ発散できるようにしてやってほしいです!」と(笑)。今から考えれば、常にテストの点数や風紀で評価に晒されている教室とは違い、保健室は子どもたちが素でいられる場所だったのかもしれません。
■2011年、大阪維新の会がまとめた教育基本条例案が、大阪の教育現場を変えた
――――1990年代前半から大阪の教育現場を見てこられた斉加監督が、先生たちの様子が変わったと思ったのはいつごろですか?
斉加:2008年、橋下徹氏が大阪府知事になり、大阪の学力テストの平均点が低いとか、教育委員会を批判する強めの発言をされるようになったのですが、明らかに先生たちの表情が変わったと思ったのは2011年の夏、大阪維新の会が教育基本条例案をまとめたときですね。その条例案は、3年連続定員割れの府立高校は統廃合の対象(廃校)にするとか、学校選択制度の導入、先生の5段階評価を導入し、アメとムチで締め付けて学校を効率化していくような内容でした。
当時、ニュース特集でアメリカの著名な教育社会学者、ダイアン・ラヴィッチ教授が「この条例のままでは公教育がダメになる。先生を罰してばかりでは、先生が逃げ出してしまう」とおっしゃっていたのですが、大阪の先生はエネルギッシュですし、多文化共生教育や同和教育で先駆的なことをやってこられたので、わたしはそんなにすぐには悪いように変わらないと思っていたのです。
――――でも想像以上の速さで、状況が変わってしまったと?
斉加:実際はガラリと変わってしまいました。職員室の雰囲気も、20年前ぐらいの職員室は担当している生徒たちのことや、次の行事のことなど先生が自分たちで議論が常になされている場でした。でも最近は会社と同じく、校長というトップが教育委員会から降りてきた連絡事項を伝達する場のような感じで、自由な空気が薄まっている気がします。さらにコロナ禍が先生の主体性や自由な活動を奪ってしまった気がしますね。
だから淀川区の市立木川南小学校の久保敬校長が、「もっと公教育について真剣に考える時期が来ている」と松井大阪市長に提言を送られたわけです。その提言のなかで、「生き抜くのではなく生きあう世の中を」と訴えておられます。2011年の教育基本条例案に基づく大阪の教育改革はテストの点数で学校や地域を競わせ、先生もランク付けする競争至上主義です。学区を外し、より広い学区で子どもたちに学校を選ばせるので、人気のある学校と不人気の学校が両極端に分かれてしまう。わたしには統廃合の対象となる不人気な学校を人為的に作り出しているように見えるのです。
■沖縄の集団自決を巡る教科書問題につながる、検定制度のいびつさ
――――大阪の公教育が変わっていくのを目の当たりにしてきたなかで、テレビ版「教育と愛国」制作のきっかけは?
斉加:大阪の教育が変化していると感じていたなか、2017年3月、戦後初めての小学校「道徳」の教科書検定が行われました。検定結果が公開されたとき、「にちようびのさんぽみち」(1年用)という男の子がおじいさんとお散歩して住んでいる地域、故郷を好きになってゆく読み物のページで、パン屋が和菓子屋に書き換えられていたのです。驚いて検定意見を見ると、「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度に照らして不適切」だと。書き換えはあまりにも短絡すぎると思ったのですが、文科省は「検定意見を述べたのみで、パン屋を和菓子屋に書き換えたのはあくまでも教科書会社の責任であるし、その変更をしたから検定を通ったのではなく、他にも様々な工夫をされた結果、検定に通ったのです」という回答で、わたしも訳がわからなくなってしまった。
2016年度の高校歴史教科書の検定で沖縄の集団自決について、「軍の命令や誘導」という記載が削除され、沖縄県民のみなさんが激しい抗議に立ち上がったという経緯を知っていたので、一見全然関係のないように見えるこの二つの事柄がつながっていると感じ取れたのです。この検定制度のなかに、今の教育のいびつさが凝縮されている。その気づきが出発点になりました。
――――最初からタイトルは「教育と愛国」に決めていたのですか?
斉加:2006年に教育基本法が改定され、戦後初めて「愛国心」が盛り込まれたことが、2018年の小学校での「道徳」教科化における教科書検定で「国や郷土を愛する態度に照らして不適切」という検定意見として表面化したので、まさに「教育と愛国」だと感じました。また、大阪維新の会の条例案も「グローバル社会に対応できる人材育成」などは、それまでの一人ひとりの個性を大事にという教育基本法の精神からかけ離れ、グローバルというよりむしろ愛国的だと感じるのです。
■「愛国」の排他性と、度重なる排斥運動
――――愛国という言葉のはらむ危険性を感じます。どうしても排他的になってしまうのは、現在の日本を象徴していますね。
斉加:自然な気持ちで故郷を愛するとか、日本を好きな気持ちは大事にすればいいと思うのですが、それを政府などが上から求めると途端に排他的になってしまう。生野区の学校で取材をしたときも、自分は日本人ではないとか、ダブルのルーツを持つ子どもも多かったのですが、皆、自分のルーツを大事にしています。だから「日本人というアイデンティティー」を上から強調されると、受け止め方に戸惑います。
今の教育現場ではアクティブラーニングや「主体的・対話的で深い学び」の視点が掲げられ、教え込むのではなく、議論や対話を通して多角的な観方を身につけるための学習が行われています。教科書も今年度から高校でスタートした「世界史探求」「日本史探求」は生徒が問いを立てることができるようになることがコンセプトですが、政治家がおっしゃる教育への考え方(刷り込み教育など)との大きなズレを感じざるを得ません。
――――そもそも、政治家が教育に介入すること自体おかしいのにもっとひどいことが明らかになります。
斉加:教育現場にここまで政治の介入が進んでしまっていいのか。しかも一つの歴史教科書を巡り、教科書会社ではなく、採択をした中学校に大量に抗議のハガキや電話が押し寄せるのは極めて異常です。組織的な排斥運動としてなされているし、教科書をきちんと読まずに、その排斥運動に加担している政治家がいるわけです。
1997年に初めて従軍慰安婦の記述が教科書に載るのですが、2001年に日本書籍が戦争加害の記述を「自虐的」と言われ目立ってしまったことにより、その後倒産に追い込まれてしまいます。だから、97年以降ずっと歴史教科書に対する攻撃を続け、排斥運動をしている側からすれば、彼らにとっての成功体験を重ねて今に至っているということが、映画を作る中で改めてわかりました。
■コロナ禍で、教育の普遍的な価値や土台が崩さようとしていることへの危機感が映画化の原動力に
――――テレビ版放映から映画版の公開に至る5年の間、コロナも含め、世の中も教育を取り巻く環境も大きく変化しましたね。
斉加:テレビ版放映の翌年に、ギャラクシー賞大賞を受賞しましたので、その段階で映画化のお声がけをいただきもしたのですが、他にも取材したいテーマがあり、テレビ版をそのまま映画にするという気持ちにはなりませんでした。ところが2020年、新型コロナウィルスが蔓延し、学校現場が一層消耗していく姿を目の当たりにし、教育現場が疲弊していく理由のひとつとして、政治主導の対策が挙げられると思ったのです。
2020年3月、文部科学省の頭越しに、安倍首相が全国一斉休校を指示し、松井市長も教育委員会への相談もなく突然オンライン授業を打ち出した。通信環境が学校側も各ご家庭でも整わないなか、混乱を招いたわけです。地域や学校により状況は違うわけで、目の前の子どもたちにどのように授業を編成すればいいかを判断するのは校長の権限で、子どもたちを支えているのは先生なのですが、教育は独立しているという考え自体がどんどん崩されている。教育委員会も独立行政機関で、学校も校長が権限を持っているという意識がどんどん薄まっているのではないかと。コロナに乗じて、本来揺るがしてはいけない教育の普遍的な価値や土台が崩されようとしているように、わたしには見えました。
――――確かにコロナを機に、教育現場のオンライン化が進んでいることはニュースなどから知っていましたが、一方的な通告では結局教育現場、しいては子どもたちにしわ寄せが行ってしまいます。さらに、斉加監督が映画化に向けて「人生最大のギアが入った」という事件が起きます。
斉加:日本学術会議が推薦した新会員のうち6名の学者が官邸の意向で任命拒否されたことが判明しました。もともと教科書は学術書で、学術的知見によって作られているわけですが、教科書を作り上げる学術そのものの側を官邸の意向で任命拒否してしまうとなると、学術の領域まで歪んでいくかもしれない。学問の自由まで、政治介入してくるというのは、一体どこの国の話なのかと戦慄を覚えました。改めて映画にしようと思い、企画書を書いてから正式に社内決定でGOサインが出るまで1年かかりました。
澤田隆三プロデューサー:会社としては投資を回収できるのか。こういう堅めのドキュメンタリー作品を興行し、収益が見込めるのか。それが一番のネックでした。政治的ではないかと思っている人がいたかもしれませんが、直接こちらの耳に届くようなことはなかったです。3回行った社内試写では、ドラマの演出を長年手がけていた役職者から、登場人物から出てくる言葉のリアルさがとてもよく伝わったとメールで褒めてくれました。大きな画面でかけるからこそ伝わるものがあるという声もありましたね。
――――ありがとうございました。最後に言葉という点では、情報量が非常に多い本作で、その大きな役割を担ったのがナレーションの井浦新さんで。とても丁寧かつ真摯な語り口でした。
斉加:収録時間がとても長かったのですが、途中で差し入れなどを食べるようなことも一切されず非常に集中した状態で挑んでくださいました。言葉を自分のものにしないと語れないのでと、日頃使い慣れないような政治用語などは「ちょっと整理させてください」とご自身で復唱されてから、収録されることもありました。もちろんこちらから「もう一度」とテイクを重ねることもありましたが、わたしが原稿通りしゃべっていただけていると思っていた箇所でも、井浦さん自ら「ちょっと今のは語れていないから、待ってください」と時間をとり、再テイクを収録することが何度もありました。言葉のちょっとした抑揚から、井浦さんが何を感じてこの言葉を強めているのかが、わたしには全てわかりましたし、本当にすごい人だなと思いました。
(江口由美)
<作品情報>
『教育と愛国』
(2022年 日本 107分)
監督:斉加尚代 プロデューサー:澤田隆三/奥田信幸
ナレーション:井浦新
5月13日(金)から京都シネマ、5月14日(土)から第七藝術劇場、7月元町映画館 にて公開
公式サイト → https://www.mbs.jp/kyoiku-aikoku/
© 2022映画「教育と愛国」製作委員会
0コメント