『わたしたちの家』ミステリアスな家で並行する二つの物語の行方は?

住居というのは時に物語の大きな鍵を握る。私の初となる京都の出町座で鑑賞した『わたしたちの家』。上映後の清原惟監督と細馬宏通さんによるアフタートークで、細馬宏通さんがしきりに狭い、怖いと称していた舞台となる主人公たちが住む元タバコ屋の家。物語では度々、玄関側に据えたカメラが、玄関を上がった場所にある小さな居間(ちゃぶ台があり食事をする場所になっている)、そしてその奥の台所まで一直線に映している。手前と、奥のガラス戸がレイヤーになって、隠れている場所が多い絵になっているのだ。そして、居間のすぐ隣には急な階段、2階は周りに廊下がある構造。


これだけ聞くと、なんだか狭い場所に思ってしまうのだが、私にとってはそれ以上に懐かしいという思いが大きかった。トークで築90年と清原監督が明かしていたが、私も20歳までは曽祖母が建てた家に住んでいて、この家のようにガラス戸がいっぱいあり、急な階段が2箇所、長い廊下もあったり、そして古い家が持つ特有の怖さがあった。当時増えつつあった公団住宅に住んでいたら、自分の性格ももう少し違っていただろうと思うぐらい、家の持つ力は大きいなと改めて思う。そして懐かしいついでにもう一つ。狭いように見える家だが、家の屋根部分に一見屋上に見えるようなスペースがあり、洗濯物干し場となっている。物語でも洗濯を干しながら、14歳のセリと母が話をしているシーンがある。家の中で母の恋人のことを感じながら、微妙な気分でいるセリとは違い、母娘共に開放的な気分になっているシーンだが、この洗濯干し場もかつての私の家にあり、そこから花火大会の日は花火を見たりもしていた。家にまつわる思い出の中でも、この場所はまた違う意味を与えてくれたのだ。


この物語が、異彩を放っているのは、母娘で暮らしているセリたちと、もう一組、ちょっと不思議な二人組の物語が同時並行で進行する点だ。フェリーで出会った記憶喪失のサナと名乗る女と、古い服を仕立て直している(職業かどうかは分からないが・・・)一人暮らしの透子。正体不明の二人が心を通わせながら共同生活を始める家も個性的だ。だが、彼女たちの場合は家にフォーカスするというより、その行動が謎めいている。透子は極秘で何かを調査し、それが狙われている節があるし、サナはナツキという男と出会うが彼の素性も分からない。家のミステリアスさを上回る「分からないこと」が観客の気持ちを支配するのだ。


家の中の小物や、暖簾などのディテールに様々な仕掛けが潜み、この二組の女性たちの物語がどのように重なるのかを色々妄想しながら、時には息つまるようなシーンもありながら、気がつけば最後まで。清原監督はトークの中で、音楽に着想を得たとしながら「バッハのフーガ的映画。複数の独立した物語が並列しつつ、重なり合い和音が生まれるようにした」と明かしていたが、まさに和音のように重なる物語を独特の空間演出で実現させた。設定は現代だが、あえて時代のずれたものを取り入れ、ファッションにせよ身の回りのものにせよ、親の世代のものがそのまま残って、受け継いでいるという感覚を大事にしたという。パリジェンヌなどはヴィンテージものを大事にし、古着ファッションを着こなすことこそオシャレという価値観があるが、まさにその感覚を映画にも取り入れている。少しずつズレが重なり、最後に決定的瞬間が訪れる、スリラー的要素を兼ね備えた物語。最後に、セリがある物を携え、家を飛び出して自転車を走らせるシーンで、電信柱の見事な連なりがテオ・アンゲロプロスの様式美を想起させ、感動的だったことも付け加えておきたい。PFFアワード2017グランプリ作品。