『寝ても覚めても』男と女の”愛”に向き合う至福のとき

私の初めての濱口作品との出会いは、2010年4月、大阪で行われたシネ・ドライヴで上映された長編デビュー作『何食わぬ顔』(03)だった。PLAX賞を受賞した時のコメントでは、自身の最新作が上映されたにも関わらず、デビュー作で受賞したことに、シネ・ドライヴ事務局からのプレッシャーを感じると語っておられたのが印象深い。それだけ10年近く前から、早く多くの人に観てもらえるようになってほしい監督と既に太鼓判を押されていた。


私の中では大人の恋愛模様を実にリアルに、しかもオリジナル脚本で描ける作家というイメージが強かったが、東日本大震災以降、濱口監督は東北で酒井耕さんと共同監督でのドキュメンタリーをシリーズで制作。映画を撮っているときは、現地に在住するというスタイルは、その後神戸で『ハッピーアワー』を撮る時にも踏襲された。『ハッピーアワー』では演技経験のない人も多数起用し、ワークショップを重ねて、撮影前に徹底的に準備を重ね、第68回ロカルノ国際映画祭では国際コンペティション部門で4人の主演全員に対し最優秀女優賞が授与されている。4人の主人公それぞれの等身大の恋愛模様や夫婦問題を描き切り、5時間があっという間だった。


そんな濱口監督がいよいよ初の商業映画を手がけ、しかも原作モノにも初チャレンジと、長年濱口監督作品を楽しみにしてきた者としては期待で胸いっぱいの第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品作『寝ても覚めても』。


冒頭で見覚えのある場所が出てきて、いきなり前のめりになる。水都大阪を象徴する川辺の風景から、堂島にある国立国際美術館で運命の出会いの場となる「牛腸茂雄写真展 self and others」のシーンに。いくつか写真がある中でも、瓜二つの双子の少女の写真の前で立ち止まるのがヒロインの朝子だ。まだ恋というものを知らないふんわりした雰囲気の朝子が、鼻歌を歌いながらその場を通り過ぎた麦と川沿いで出会う。爆竹のパチパチとした音は、まるで二人の心の中の何かが弾けた音のよう。恋が始まる甘やかさでいっぱいだ。放浪癖のある自由人、麦と、常に一緒にいないと不安になるぐらい好きだった朝子。麦が突然いなくなってから時が過ぎた東京編からが、いわばこの物語のスタートラインになる。


麦と瓜二つの顔をした大阪出身の亮平に出会った朝子は、動揺を隠せない。そんな麦に亮平は嫌われているのではという思いを抱きながらも、どんどん惹かれていく。ここでもギャラリーで開催されていた「牛腸茂雄写真展 self and others」が亮平と朝子が繋がるきっかけを果たすのだ。ルームシェアをしている朝子の友人の演劇はヘンリック・イプセンの『野鴨』。朝子が行く予定だった金曜の昼公演に半休をとって亮平が駆けつけるが、朝子はいなかった。諦めにも似た気持ちで演劇を見ようとした時に、日本人なら説明なくても分かるその瞬間がやってきたのだ。濱口監督は、東日本大震災とその後の人々の心の揺れ、恋人たちのつながりを、ここで描き出している。死ぬかもしれないという思いをした後は、つまらない意地や過去の痛みを捨て去り、今会いたいと想う人の元に飛んで行く。原作にはない、日本人の記憶を伝える名シーンが生まれたのだ。


一人二役を演じた東出昌大、特に大阪弁の亮平は、唐田えりか演じる朝子が終始思い悩み顔だった分、物語に活気を添える。テレビ版の『この世界の片隅で』や、『榎田貿易堂』でもエキセントリックな演技に釘付けとなる伊藤沙莉は、口は悪いが頼りになる大阪の友人春代を小気味よく演じ、いいアクセントになっている。家政婦は見たじゃないけど、「猫は全て見ている」というぐらい、食事のシーンでも食事をしているところは一切映さない代わりに、なぜか猫を映しているのも面白い(後々、さらに大きな役目を果たすのだけど・・・)。


震災後毎月通っていたという仙台で、亮平と朝子が市場の手伝いをするシーンは、手持ちカメラでドキュメンタリーのように撮影し、活気が溢れている。濱口監督らしさを感じるシーンだ。なんとあの仲本工事も登場しているなと思ったら、こちらもまた重要なシーンで登場。大阪の友人の母親役で登場する田中美佐子も、若い頃の恋愛について思わぬ本音を漏らすし、それぞれが愛に悩む朝子の目を開かせてくれる役割を果たしているのがいい。


麦が実は有名人となって成功を収めていることが分かってから、物語は急展開していく。同じ顔をしながら、性格は正反対の”運命の人”を前に、朝子が下す決断にヒヤヒヤ、ドキドキさせられながら、それと同時に私だったらどうするだろうと考えてしまう。まさに同じ問いを自分に投げかけられているように。また、亮平の態度を見て、違う人の陰に怯え、朝子に愛されるためにいい人でいようとした亮平のことを思う。そして、本当に大事なものは失ってから気づくのだと思い知らされるのだ。


麦と朝子といい、亮平と朝子といい、恋する二人というのはお互いしか見えていない。言い方を変えれば共依存の関係だ。ラストシーンの二人の発した言葉と、二人の姿を見て、彼らは共依存を脱することができるのではないかという予感がした。共依存の恋愛しかできなかった朝子が、自立した自分を持ち、相手を愛そうとする人間になるまでの物語、とでも言えようか。濱口監督が描く恋愛物語は、登場人物たちのリアルな感情から発するセリフで男と女の気持ちのひだを丁寧に、時には激しく映し出す。原作のエッセンスを見事に昇華させた板挟み恋愛物語に、愛の前では自分を抑えられない人間の愛おしさを改めて感じた。