日本とミャンマー、二つに分かれた家族を子どもの視点で綴る。 『僕の帰る場所』藤元明緒監督インタビュー


在日ミャンマー人家族の実話をもとに、日本とミャンマーに分かれて暮らすことになった家族の物語を、子どもの視点で綴るヒューマンドラマ『僕の帰る場所』が、2月15日(金)からシネ・リーブル梅田で公開される。本作が長編デビュー作となる藤元明緒監督が自ら脚本も手がけ、ミャンマー人キャストは全て演技経験のない素人を起用。ワールドプレミア上映となった第30回東京国際映画祭ではアジアの未来部門作品賞、国際交流基金アジアセンター特別賞の2冠となった他、世界の映画祭でも好評を博した感動作だ。  

難民申請を破棄された夫アイセを残し、帰国する決断をした妻ケインと、日本で生まれ育った長男カウン、次男テッが、母国ミャンマーで過ごす日々や、日本人であるという自負から、ミャンマーになかなか馴染めないカウンの葛藤をドキュメンタリータッチで描いている。親の事情で離れて暮らさざるを得ない家族が抱える気持ちや、自分のいる場所を求める姿は、初めて気づかされることも多ければ、誰もが抱える問題と捉えることもできるだろう。 

大阪、豊中市出身で、母校(ビジュアルアーツ専門学校大阪)に凱旋来場した藤元明緒監督に、お話を伺った。



■編集マン志望から、家族を題材にした映画を撮るにいたるまで 

――――藤元監督は、大学時代に心理学や家族社会学を学んだそうですが、そこから映画を学ぶに至った経緯は? 

藤元:僕は親が離婚していたので、家族の問題に興味がありました。調べると家族社会学という分野があることを知り、大学3年の時は心理学や家族社会学のことを学ぶゼミに入り、そこでフィールドワークの方法も教えてもらいました。現場での体験を通じて、今後家族の問題を追いかけていきたいという思いを強くしたのは確かです。映像という部分で言えば、僕は軽音部の記録係だったので、当時の家庭用ビデオカメラで撮影したものを、自分で編集のソフトウェアを買って、やってみたのがとても楽しかったんです。当時は動画を撮る人があまりいなかったので、編集マンになると決め、大学卒業後放送系の機材が充実しているビジュアルアーツ専門学校大阪に2010年4月に入学しました。


 ――――軽音部の記録係がきっかけになったというのは面白いですね。映画自体には興味はあったのですか? 

藤元:元々映画自体に興味はなかったのですが、専門学校時代に1週間に1度、シネ・ヌーヴォなどのミニシアターで映画を見るという授業がありました。そこで見た『動くな、死ね、甦れ!』(ヴィターリー・カネフスキー監督)の映画にすごく感動したんです。子どもが主人公のお話ですが、すごく気持ちがわかる。こういうのを僕もやってみたいと思い、そこからですね。卒業制作の短編『サイケファミリア』ではDVに悩む親の物語を描きました。なら国際映画祭やドバイ国際映画祭で一般の方に初めて観ていただいたのですが、結構厳しい評価だったのが悔しくて、長編を作りたいと思い、上京しました。そこで、本作の渡邉プロデューサーのかつて所属していた会社が長編を撮る監督を募集していたのを知り、思わず応募したんです。  



■全編ミャンマーロケからの仕切り直しは、日本に住んでいるミャンマー人に出会うことから始まった 

――――タイミングよく長編監督の募集があったんですね。本作はミャンマーからの移民を描いた映画ですが、ミャンマーを題材にしたのは藤元監督のアイデアですか? 

藤元:長編監督の募集要項が「全編ミャンマーロケで、日本青年を使って撮れる監督」でした。実は一番の企画元は本作の出演者でもある來河侑希さんで、ミャンマーが最近盛り上がっているという話を耳にし、渡邉プロデューサーに話をもちかけたのです。新しいことに目を向けるというのは価値があるのではないかと、僕も含めて皆ミャンマーのことを詳しく知らない状況でしたが、見切り発車的にスタートした企画でした。 


――――シナリオも藤元監督が書かれていますが、当初の企画から随分変わったのでしょうか? 

藤元:最初は全編ミャンマーで展開する青春物語で、ヒロインは若い娼婦にしていたのですが、当時のミャンマーでは絶対に検閲に通らないことが分かりました。ミャンマー側からすれば、やっと国が開かれてきた時に、ミャンマーの悪い部分を露わにするようなことはやめてほしい訳です。長編デビューできると思っていたのに、一旦話が空中分解してしまい、その時は僕も落ち込みました。


 ――――ゼロからの再スタートですね。どのように仕切り直しをしたのですか? 

藤元:日本に住んでいるミャンマー人にお会いしたことがなかったので、映画のことは一度忘れて、そういう人たちに出会ってみたい。そう思い、高田馬場のミャンマー人街に一人でよく飲みに行くようになりました。店主のおばさんに挨拶程度のミャンマー語で話しかけると、「ミャンマー語が話せるなんて珍しい!」とそこから色々な人が話しかけてくれるようになり、飲み会にも呼ばれるようになって。接していくうちに彼らが難民申請中であることを知り、そこで初めてこういう人たちがいることを知りました。彼らの愚痴を聞くうちに、もっと難民について学びたいと思い、個人で難民支援している方にお話を伺い、入国管理局のボランティアに見学のため訪問したことがあったんです。その方が保証人のサインをした相手が、本作のお父さん役のモデルになった人でした。色々話を聞かせてもらうようになったのですが、その方は朝から晩まで仕事をして多忙のため、映画出演は叶わなかった。日本にいるミャンマー人、特に男性で、撮影のために時間を空けることができる人はいないでしょう。ミャンマーからキャストになれる人を連れてこなければ撮影できない状況でした。



 ■出演を快諾したアイセさん、「自分の周りに同じ境遇の人がいたので、父親の気持ちがわかる」 

――――映画を見る限り、どうみても実生活でもこの人たちは家族だろうなと思うぐらい、父役のアイセさんの演技が愛情に満ちていました。アイセさんとの出会いは? 

藤元:來河さんが難民キャンプへボランティアで行った時に通訳してくれたのが、このアイセさんでした。ミャンマーは、ビルマ族以外は少数民族(135以上)と呼ばれ、言語が全て違います。アイセさんはカチン州という北部の少数民族出身で、10年間東京に住んでいたので日本語がしゃべれるんです。まとまった時間も取れるということで、モデルの男性の実話を元に書いたプロットを読んでもらうと、すごく共感してくれました。「自分の周りに同じような境遇の人がいたので、この父親の気持ちがわかる。何か手伝うことができるかもしれない」と出演を快諾してくれたのです。アイセさんは建築科出身だったので、映画でカウンくんたちが父の実家に行くシーンでは、アイセさんが使っていた教科書も持ち込ませてもらいました。アイセさんは実生活では独身なのですが、二人の息子の父役を見事に演じてくれました。 


■「究極のホームビデオを撮る」ことを目指して 

――――支援する日本人側の取材を行いながらも、映画では一貫してミャンマー人の目線で描いていますね。 

藤元:脚本段階で、日本人のフィルターを通してみたほうがいいのではないかという話も上がりましたが、そんなことをしなくても、僕たちのチームで見せたいものをストレートに表現すれば、観客にもきっと伝わる。あくまでも家族を描きたかったので、僕たちは「究極のホームビデオを撮る」ことを目指しました。そこから見えてくるものだけで十分ですし、日本以外の人たちにもみていただきたいという思いもありました。 


――――劇映画ではありますが、ドキュメンタリーのようなリアルな感じが本作の魅力です。逆にドキュメンタリーを撮るつもりは全くなかったのですか? 

藤元:最初、モデルの男性に出会った時、ドキュメンタリーを撮りたいと思いました。彼曰く、「前年に妻が病気になって、子どもを連れてミャンマーに帰ったけれど、その子どもがミャンマーで馴染めずにいる」と聞いて、僕の中でピンとくるものがありました。当初、個人的なドキュメンタリーにしようと思い、彼のお子さんに会いにミャンマーに行ったのですが、実際に会うと精神的に乗り越えている感じで、僕が聞いていたのとは違っていました。お父さんに話を聞いた時から2ヶ月経っていたのでそうなったかもしれないのですが、逆にその2ヶ月間にこの子にはどんなことが起こっていたのか。どうやって乗り越えたのかをフィクションで描こうと方向転換しました。まさか、こんなにドキュメンタリー風になるとは予想していませんでしたが。


 

■「自分の国のことを“汚い”と言いたくない」本当はミャンマー大好きなカウンくん 

――――主人公のカウンくん、弟のテッくん、母親のケインさんは本当の親子ですが、揃って出演してくださるというのはとても珍しいパターンなのでは? 

藤元:彼らは全員日本に住んでいますし、カウンくん、テッくん(二人とも役名と本名が同じ)は生まれも日本です。ただ年に1、2回ミャンマーに帰っているので、映画のカウンくんのようにミャンマーを好きになれないということはありません。実際の二人はミャンマー大好きっ子で、「(日本からミャンマーに戻ったげカウンくんがミャンマーのことを「汚い」というシーンで)自分の国のことを「汚い」と言いたくない」と言われました。ただ、実際には経済的事情で、なかなかミャンマーに帰れない家族の方が多いです。  


――――弟のテッくんの「パパ、だっこ!」は、本当の親子のようにリアルでしたね。

 藤元:テッくんは天才的で、現場でも彼に助けられました。彼がいることで、四人が本当の家族のように見えるんです。カウンくんはうつむいて歩いたり、芝居っぽい動きも多いのですが、テッくんは完全に振り切っていて、映画のトーンを決定づけていました。本当のカウンくんは、もっと明るいし、兄弟も仲良くて、撮影中もずっと喋っていましたよ。 


――――ミャンマーでのカウンくんは、母国に帰ったにも関わらず、ミャンマー語がしゃべれずに疎外感を味わいます。アイデンティティを考える上で、ルーツも大事だけれど、主言語も大事だと痛感しました。 

藤元:日本に住んでいるミャンマー人の子どもでビルマ語をマスターしている子は本当に限られています。映画でも出てきたように、ビルマ語の学校も日本にありますが、やはり日頃学校では日本語ですし、カウンくんも3歳まではお母さんがビルマ語を教えていたけれど、忙しくてそれが続かなかった。リスニングはできても、喋るのは本当に難しいそうです。



 ■帰国するか、日本に留まるか。ミャンマーコミュニティでも意見が分かれる難しい問題 

――――アイセさんの冒頭シーンで、自身の過去をフラッシュバックする映像が高速で挿入されています。2007年の反政府デモにも触れていますが、その意図は? 

藤元: 2007年の反政府デモがあったから、彼が日本に来たのではないかということを示したかった。でもこの映画を作った当時(2014年)はまだ軍事政権だったので、あまり映像を出しすぎると検閲に引っかかってしまう。明確に言わず、面会室でアイセがしゃべっている時の記憶にして、お坊さんのバックショットや、血が流れているような映像を使って、デモの匂いをなんとか出そうとしました。


 ――――難民申請をしても却下され、妻には先行きの不安を訴えられ、アイセさんの立場は非常に厳しいですが、ミャンマーに一緒に帰るという選択肢は考えにくいのですか? 

藤元:映画では明確に描いていませんが、ミャンマー政府に不信感を持っているので帰るのは怖い訳です。ちょうどその時代、テイン・セイン大統領が国外のミャンマー人に帰国するよう通達を出し、帰国派と現状維持派で東京のミャンマーコミュニティーでもすごく意見が割れました。そのタイミングで帰国すると、仮放免ビザで出国時に自主帰国のサイン(最低5年以上は日本に入らない)をするので、しばらくは日本に戻れず、それまで日本で培って来たもの、努力が無駄になってしまいます。帰国するかどうかを決める際に、いろいろな要因が実はあるのです。逆に、妻ケインさんのように日本生活に馴染んでいる年齢の子どもを連れてミャンマーに帰るという人は年に数えるほどで、コミュニティーの中でもマイノリティです。そして一度家族が離れてしまうと、簡単に行き来できない。そこがモデルの方も苦しそうにしていらっしゃった部分でした。 


――――日本語タイトル『僕の帰る場所』は、映画を観終わって「なるほど」と思いますね。 

藤元:「僕の」とついていますが、お母さんにとっての場所、お父さんにとっての場所、弟にとっての場所・・・と考える中で、それぞれが進んでいく場所であり、それは映画では示していません。日本なのか、ミャンマーなのか、家族がいる場所なのか、違う場所なのか。色々な選択肢を込めています。


――――最後に、これからご覧になる皆さんに、メッセージをお願いします。 

藤元:ミャンマーや難民のこと、社会問題となっていることを知らなくても、映画としてみることができるので、硬い気持ちにならず、ご家族やお友達と見ていただきたいです。英語字幕がついているので、外国籍の方にもぜひみていただきたい。色々な目線で見て、色々語っていただける映画だと思います。  

(江口由美)



<作品情報> 

『僕の帰る場所』(2017年 日本=ミャンマー 98分)  

監督・脚本・編集:藤元明緒 

出演:ケイン・ミャッ・トゥ、カウン・ミャッ・トゥ、テッ・ミャッ・ナイン、アイセ、來河侑希、黑宮ニイナ、津田寛治他 

製作・配給:株式会社E.x.N(エクスン) 

2019年2月15日(金)~シネ・リーブル梅田他全国順次公開 

公式サイト→https://passage-of-life.com/