『春潮』中国激動の半世紀を三世代の女性に重ねて描く、ヤン・リーナー監督の真骨頂

 三世代の女性を描いた作品といえば、大阪アジアン映画祭2018で、台湾のヤン・ヤーチェ監督作『血観音』がまず思い浮かんだ。ヤン・ヤーチェ監督にインタビューさせていただいた時、「母が娘を束縛する姿に、政府が国民をコントロールする姿を重ねた」という言葉が非常に印象的だったが、今年の大阪アジアン映画祭で上映されたヤン・リーナー(楊荔鈉)監督が三世代の女性を描いた『春潮』Spring Tide [春潮]も、その文脈で読み解くことができる作品だ。


 ただこの作品は、より母、娘のバックグラウンドが深く描きこまれ、彼女たちが生きた時代における社会的背景の違いが、二人の価値観の違いに大きく反映されていることが分かる。主人公ジアンボーは、新聞社に勤める社会部記者だが、かつては一緒に苦労して取材を重ねた先輩記者も、今や出世し、逆にジアンポーに上から睨まれるような記事を書かないように圧力を加えられてしまう。母、ミンランと娘のいる実家では、母の機嫌を損ねると、怒鳴られるので黙って部屋に篭ってしまうジアンポー。唯一心が安らぐのは、ミュージシャンの恋人の家で過ごす夜ぐらいだ。一方、母のミンランは、コーラスグループの指導者的存在で、合唱コンクールのため、国を讃える歌を高らかに歌い上げる。アコーディオン伴奏者の男はパートナーのような関係だが、ある日求婚されて…。



 日常の描写を積み重ねる中、ジアンポーとミンランのぶつかり合いが加速するが、その度にそれぞれが知らなかった母、もしくは娘の思いや過去が明かされる。性欲が強く女癖の悪い夫と別れるために尋常ではない苦労を重ね、一人で娘を育て上げたミンランと、父との美しい思い出を胸に生きるジアンポー。国のおかげで今生きていられると思うミンランと、中国で記者として生きることにフラストレーションを抱えるジアンポー。同じ男(夫、父)や国でも、それぞれから見れば全く別の見え方がする。お互いの立場への理解の欠如が、母娘の確執をより根深くしていることを浮き彫りにするのだ。ミンランが孫の面倒を見ることも、ジアンポーからすれば「子育ての機会を奪った」と、お互いへの疑念は深まるばかり。エレイン・ジン(『誰がための日々』)が演じるミンランが、積年の苦労への理解のなさを爆発させれば、ハオ・レイ(『天安門、恋人たち』『二重生活』)が演じるジアンポーは、ひたすら耐え、部屋でぎゅっとサボテンを握りしめる。意外と他人事ではない、母娘の永遠に分かり合えない溝が、ヒリヒリするような強さで描かれる。


 この二人の間を渡り鳥のように行き来しながら、自分なりの理想を韓国人の同級生家族に見出す孫娘は、この物語の中で清涼剤的存在だ。孫娘が通う小学校でのシーンも度々登場し、競争意識を煽る教育現場の姿が浮かび上がる。祖母や母の身勝手さに、時には腹を立てることはあっても、我慢するのではなく、自分の思うところを表現する。ズシリと腰を据えていきる祖母と、漂うように生きる母との間で、父の不在に心を痛めながらも、人見知りせず誰にでも臆せず話すことができるのは、核家族ではなく三世代家族で暮らす中で得られた素質だろう。

 生々しい言い争いがある一方で、ジアンポーの心象描写や、彼女が目にする幻など、幻想的なシーンが挿入され、観るものの想像力を掻き立てる。母のコーラスグループを追い出すためにジアンポーが仕組んだ水漏れや、孫娘が牛乳をこぼしてミンランの激怒につながったりと、物語の中で水、液体が大きなモチーフになっている。水が流れ、大きな流れになって川になる姿は、羊水からはじまり、綿々と続く女たちのつながりのようにも見えた。鬱積した思いを抱えて生きる女性たちの心情を、強度と美しさを兼ね備えた表現でみせるヤン・リーナー監督の真骨頂。『春夢』(OAFF2014)に続く、女性3部作の2作目だそうだが、さらにどんな集大成を提示するのか、楽しみにしていたい。

※本作はホウ・シャオセンやジャ・ジャンクー作品を手がける市山尚三氏がエグゼクティブ・プロデューサーに名を連ね、音楽は『春夢』に引き続き、半野喜弘氏が担当している。