「沖縄戦の全貌」から、今の時代を考え、未来を作るための手がかりが見える。『ドキュメンタリー沖縄戦 ~知られざる悲しみの記憶~』太田隆文監督インタビュー
戦後75年を迎える今年、沖縄戦を描いた唯一の作品となる『ドキュメンタリー沖縄戦 ~知られざる悲しみの記憶~』が、7月31日(金)より京都シネマ、8月1日(土)より第七藝術劇場、8月14日(金)より神戸映画資料館 にて全国順次公開される。
監督は、『朝日のあたる家』の太田隆文。太平洋戦争で日本唯一の地上戦が展開された沖縄戦を、体験者の証言や専門家の考察、アメリカ軍が沖縄戦時に撮影した記録映像を交え、その全貌を明らかにしていく。本土決戦までの時間稼ぎとして捨て石にされた沖縄戦では、県民の14歳から70歳までが徴兵され、それ以外の女性、子ども、老人も戦闘協力を強制、時には集団強制死にも追いやられた。本作は沖縄戦下の徹底的な皇民化教育、軍事教育が、さらなる悲劇をもたらしたことも指摘している。まさに様々な沖縄戦の知識の断片をつなげて一気通貫するような、沖縄戦の全貌を知り、未来につなげる決定版とも言える作品だ。
短編ドキュメンタリーや大林宣彦監督『理由』のメイキングドキュメンタリーを経て、初のドキュメンタリー長編に臨んだ本作の太田隆文監督に、お話を伺った。
■元沖縄知事の大田昌秀さんが、沖縄戦を後世に伝えるために権利を購入したアメリカの記録映像を使って。
――――本作は沖縄戦を米軍が撮影した映像も随所で挿入され、特にカラーは衝撃が大きかったですね。
太田:まさか戦時中に米軍がカラーフィルムで、戦争を記録しているなんて思いもしませんでした。日本はフィルムどころか食料がない頃ですから。そのフィルムですが、元沖縄知事の故・大田昌秀さんのお陰で使うことができました。彼は、幼い頃から軍隊に憧れ、鉄血勤皇隊に所属しました。が、沖縄戦の現実を目の当たりにして大きく失望し、後世に沖縄戦を伝えなくてはという強い使命感を持ったそうです。大田知事は、アメリカの公文書館に米軍が戦時中に沖縄戦を記録した映像が大量に保存されていることを知り、権利を購入するための「1フィート運動(寄付)」をスタート。大量の映像(モノクロ、カラー)、写真などを沖縄県公文書館に保存、テレビ、マスコミ、映画、雑誌など、沖縄戦を取り上げる時に申請さえすれば無料使用できるようにし、多媒体で沖縄戦を伝える映像資料として使えるようにしました。そのお陰で、最初は証言だけだったものが、専門家の方のインタビュー、そしてこの記録映像と多角的に沖縄戦を見つめる作品にすることができました。
――――それらから必要な部分を探すだけでも、大変な作業だったのではないですか?
太田:何百時間も映像データがありますが、全部仕分けされている訳ではありません。ほとんどの映像は、撮影場所を書いたカチンコを映してからスタート、途中違うものを撮っている場合もありました。場所の呼び名も、例えばアメリカは「ハクソー・リッジ」日本では「前田高地」と呼び名が違うので、「前田高地」で映像データ検索をしても出てこないことがある。結局100時間分以上のデータをコピーして、自宅に持ち帰り、ひたすら目的の映像を探す。ある意味で、警察の鑑識係のような仕事を長期間続けました。
――――まずはどなたに証言を聞かれたのでしょうか?
太田:平和記念公園にある慰霊碑の前で、上原さんのインタビューでしたね。3年間で8回沖縄に通いました。誰に何を聞けばいいのかわからない状態だったので、最初は詳しい方にお聞きし、東京に帰ってからまた勉強して、こういうことが分かる人はいないかと尋ね、また新しい人に繋いでもらう。聞き込みをして真相を追う刑事の仕事のような作業を続ける。劇映画と違い、ドキュメンタリーは撮影する前の、当事者に行き着くまでの調査に時間がかかりましたね。
■たくさんの情報がある中で、どのように沖縄戦のことを伝えていけばいいのかに注力。
――――本作では沖縄戦で使われた様々な壕やガマに入られていますが、撮影する上で特別な思いがよぎったのでしょうか?
太田:事前にカメラなしで現地を訪れ、映像でどのように紹介するか?を考えました。ひめゆり学徒の最初の勤務地となった糸数壕は物凄く大きな洞窟。ガイドの方が非常に詳しく説明してくださるのですが、その悲劇がなかなかイメージできない。歴史的な事実を伝えるのがいかに難しいかということを痛感しました。だから、色々な事実を積み重ねた上で、この壕を見せるという構成にすれば、沖縄戦をリアルに伝えられるのではないか?と考えました。あとは、壕の中を映す際に暗すぎると様子が分からない。でも、照明を使い明るすぎてもいけない。適した照明を考えることも重要で、それらがドキュメンタリーの場合の演出なんです。
――――なるほど、映画の中の文脈で見るからこそ、壕の中で起こった悲惨な状況が胸に迫りますが、ただ訪れるだけで、それを感じることは逆に難しいのですね。
太田:僕の場合はまさに修学旅行生と同じで、沖縄戦に関する知識ゼロで現地取材を始めました。様々な記念館や資料館では、本当に多くの方の努力で集められた資料がたくさんあるのですが、無知な僕は情報がありすぎ呆然とするばかり。沖縄から帰るたびに勉強し、次に行った時に記念館を訪れると少しずつ展示されている資料の意味が分かってくる。映画が完成してから行くと、かなり分かるようになりました。同じように、たくさんの情報を映画に詰め込むと分からなくなる。どのように沖縄戦のことを伝えていけば、知らない方も理解してくれるか?その構成に苦労しました。
■堅苦しさを極力なくすスタイルで、ナレーションや導入部を工夫。
――――ナレーションも現代パートは斉藤とも子さん、過去パートは宝田明さんと雰囲気を変えているのが効果的ですね。宝田さんパートの緊張感とのバランスが良かったです。
太田:観ている間ずっと緊張しているとヘトヘトになるので、緩急つけることは意識しました。オープニングも、落語や漫才のように前せつでお客の気持ちを引きつけてから、本ネタに入るように、この作品も沖縄の様々な風景を見せながら、斉藤さんの語りかけるような言葉で始まり、美術館のあの絵にズームイン。宝田さんの語りで沖縄戦を始める。観客が違和感なしに、現代から沖縄戦に入っていけるような流れにしています。前作は原発事故がテーマの作品でしたが、普通の家族ドラマとして描きましたし、本作も堅苦しさを極力なくすようなスタイルにしています。
――――アメリカで学ばれたとのことですが、その体験は本作を作る上でどんな影響を与えたのですか?
太田:最初は大学の英語クラス。サウジアラビアやクェート、台湾、中国、韓国から来た留学生と一緒だったので、「アジアの中の日本がどういう国なのか?」ということがよく分かりました。そして映画学科の同級生はアメリカ人。それらの経験が役に立ちました。戦争映画では、日本からの視点のみで描くので、どうしても「日本人が被害者」という描き方になりがち。ただ、沖縄戦において日本軍は被害者でもあるけど、加害者でもある。それを描くにはアメリカ軍からの視点で描くことも必要で、彼らの思考パターンが分からないとダメ。アメリカで6年間学んだ体験が役立ちました。
――――アメリカでの体験が生きたという点では、映画の中でも軍国主義、皇民化教育のもと、助かる道を閉ざしてしまい、集団強制死が起きたチビチリガマと、ハワイに長期在住し、英語だけでなく民主主義を知っていた比嘉さんが米軍との間に入って交渉し、全員が助かったというシムクガマが描かれます。
太田:ハワイに長年住んでいた比嘉平三さん、比嘉平治さんは、アメリカ人は抵抗をすれば撃たれるけれど、抵抗しなければ何もしないことを知っていました。比嘉さんのお孫さんは「祖父は、リンカーンを尊敬していた」と言ってましたが、ただ英語がしゃべれたからではなく、アメリカ人のこと、民主主義のことをよく知っていたから、全員を生きて助けることができた。その背景もアメリカ留学時代を思い出すとより納得できました。
■アメリカは100年単位で戦争を考える国。証言者の言葉をつなぎ合わせると、沖縄戦下のアメリカの姿が見えてくる。
――――マッカーサーは、日本における沖縄をよく研究していたことも、映画では明らかにしていますね。
太田:映画には入れきれなかったエピソードですが、アメリカは1853年、ペリー提督が浦賀港に到着する前に、沖縄に寄港し、船員を何人か降ろしています。浦賀で交渉した後、沖縄に再び立ち寄る訳ですが、その間船員たちは沖縄の地形を調べていた。水源や村、川の位置などを資料にしたものを、帰国後ペリーは本にして出版し、約100年のちに、それを元に、沖縄作戦が立てられたそうです。さらに言えば「アメリカが日本に勝つため」というだけでなく、韓国やベトナムなどアジアに進出するための拠点に沖縄が必要だと、100年前から考えていたんですね。
――――そんなアメリカに対し、日本軍は沖縄の人たちを守るどころか、食料や居場所を略奪したり、自死を命令したりと、全く逆の存在であったことも、多くの証言から浮かび上がります。
太田:嘉数高知の戦闘で兵力の違いがありながら、日本軍はかなり米軍を苦しめたように、非常にクオリティの高い戦いもしています。その裏で「命を捨ててでも国を守ることは美しい」という究極の皇民化教育がありました。対するアメリカは個人主義ですから、個人が死ぬことは悲しいことであり、犠牲はできるだけない方がいいという考えです。そこから大きく違う訳です。ちなみに日本軍は、食料は現地調達で、時には住民から奪うこともあった。一方、アメリカは食事からデザートまで快適な?戦争ができるような物資をあれこれ大量に運び込んでいる。それのみならず、捕虜の食事や、幼児の捕虜用の服まで持ってきていた。つまり、戦争に対する考え方や準備が日本とアメリカでは全然違うということも、沖縄戦から見えてきます。米軍が沖縄戦を記録映像として残したのも、戦争はビジネスと考えているから。あとで検証し、より効率的かつスピーディーに行えるかを考えるためという狙いもあった。調べていくと色々なことが見えてきて「戦争はいけない」で済ませるのではなく「なぜアメリカは戦争をするのか?」「アメリカはどういう国なのか?」 を考えることが大事だと気づきました。証言者のみなさんの言葉をつなぎ合わせると、それらも見えてきます。
■戦争で学んだことは、知花さんが語った「軍隊は住民を守らない」「教育の恐ろしさ」に尽きる。
――――特に印象的だったのが、強制集団死生存者の吉川さんが、「無学の母が、なぜ死ぬならいつでも死ねると子どもたちを殺さなかったのか、ずっと考えています」という言葉です。皇民化教育に染まらなかったからこそ、普通の親として子どもに手をかけることをしなかったと考えると、教育の恐ろしさまざまざと浮かび上がりますね。
太田:ガマを案内してくださった知花さんが最後におっしゃったのは「軍隊は住民を守らない」そして「教育の恐ろしさ」。まさにこの言葉に尽きると思います。これらは現代にも通じることです。昔は「大きくなったら兵隊さんになって国を守る」と子供達は考えた。今は「一流企業に就職して、安定した幸せな人生を送りたい」という。親御さんたちは「勉強していい大学、いい会社に入りなさい」の一辺倒。これでは戦中と同じ。優秀な兵隊を育てるか、優秀なサラリーマンを育てるか。それを拒否すると昔は「非国民」と言われ、今は「落ちこぼれ」と呼ばれる。個性や自ら考える能力を育てようとしない。だから、20年を超える不況が続き、アジアの後進国になった。本来、歴史の授業も過去から大切なことを学ぶことなのに、年号や事件を暗記するだけになっている。知花さんのいう「教育の恐ろしさ」は今も同じ。だからこの作品は、戦争の意味を考えることで今の時代を考え、未来を作るための手がかりにできるものにしたいと考えました。
■沖縄上映の感想は「必ず、全国で上映してください」。多くの方が沖縄戦を知る機会になれば。
――――沖縄での先行無料上映では3日間で1000人もの方がご覧になったそうですが、具体的にどんな反響がありましたか?
太田:やはり沖縄戦への関心が高い。「昨日のことのように思い出しました」とおっしゃる方もいれば「北に逃げたので、大変だったけど、こんなに南が酷いことになっていたとは知らなかった」とおっしゃる方もいました。ただ、一番多くいただいた声は「作ってくれて、ありがとう。必ず、日本全国に届けてくださいね」でした。そこに沖縄の人たちの思いを強く感じました。
――――沖縄のことが本土に伝わらないという気持ちから出た、感謝と期待の言葉であり、沖縄県内を含めて、沖縄戦継承の難しさを、この作品が補えるのではないかと感じました。
太田:多くのテレビは慰霊の日の追悼式の、さらには総理が挨拶するシーンしか報道しません。その前に糸満広場から平和記念公園まで、当時の沖縄の人たちが避難した8.3キロの道をお年寄りから子どもたちまでが一緒に行進します。それもほぼ報道されない。僕が参加させてもらった時、糸満広場までタクシーに乗ると、運転手さんから「沖縄県人としてお礼を言います」と声をかけられたんです。郷土愛に溢れているというだけでなく、いかに本土に沖縄のことが伝わっていないかを痛感しました。玉城デニー知事に面会させていただいた際も「沖縄は発信をしたいけれど、発信するコンテンツがないので、このような映画を作ってくれるのは、とてもありがたい。ぜひ全国で上映をしてほしい!」と応援していただきました。完成してからも色々な方の応援のおかげで、全国公開まで漕ぎ着けましたし、多くの方が沖縄戦を知る機会になれば….と思っています。
(江口由美)
<作品情報>
『ドキュメンタリー沖縄戦 ~知られざる悲しみの記憶~』(2019年 日本 105分)
監督:太田隆文
ナレーション:宝田明、斉藤とも子
証言者:上江洲安昌、知花治雄、上原美智子、照屋勉、長浜ヨシ他
7月31日(金)〜京都シネマ、8月1日(土)〜第七藝術劇場、8月14日(金)~25日(火)[ただし、水・木休映]神戸映画資料館 にて公開。
©浄土真宗本願寺派(西本願寺) 青空映画舎
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