江口由美

記事一覧(45)

「イスラーム映画祭3」4月28日より神戸・元町映画館で開催。主催者藤本高之さんが見どころを語る。

イスラームが文化として広がっている国や地域を舞台にした映画、イスラム教徒を主人公に据えた映画を取り上げる映画祭として、今年で3回目を迎えるイスラーム映画祭。関西では、昨年に引き続き、神戸・元町映画館にて、4月28日より「イスラーム映画祭3」が開催される。主催者の藤本高之さんは、20代でのバックパッカー体験や、北欧映画祭「トーキョーノーザンライツフェスティバル」運営を経て、一人でイスラーム映画祭を立ち上げ、プログラミングから素材の手配、広報、運営まで全てを一人で担い、会期中は会場となるミニシアターと協力して運営を続けている。昨年8本だった上映本数が、今年は12本と大幅に増加、内5本が日本初上映だ。藤本さんは、「今までは社会性を訴求する作品より、イスラームの国の人たちの暮らしが分かるような、地味な映画を中心に選んできましたが、今回はメイン映画もパレスチナ映画に据え、国際社会が抱えている問題をそのまま映画の主題に据えた作品や、シリア映画、アフガニスタン映画など、社会的テーマが強い作品を含んでいます。トランプ大統領のような分断を煽る風潮に、草の根でもいいので抗いたい。エルサレムの首都移転問題を理解する上でもパレスチナ映画を取り上げ、パレスチナの問題をきちんと分かっていただきたい」とプログラミングの狙いを語った。日本初上映作品を中心に、注目作品を藤本さんのコメントからご紹介したい。

『欲望の翼』改めて気付いたカリーナ・ラウの魅力

リアルタイムで鑑賞できず、レンタルビデオで借りてきたビデオで鑑賞し、それでもあっという間に虜になってしまった『欲望の翼』。初めてビデオで観てから15年近く経ち、まさか劇場でこの映画を鑑賞できる日がくるなんて。冒頭やラストなど、大体のシーンは覚えているし、サントラも聴いていた。とにかくこの作品にのめり込んでいた頃の自分を思い出すかのような映像体験になった。日頃は最後列で観るのだが、何もさえぎられることなく観たかったので、シネ・リーブル梅田の最前列で。本当に古い友達に会うような気分だ。映画が始まると、サッカー場売店への通路を歩くヨディの足音がコツコツと大きく響く。音がいい。売店で仕事をするリーチェンに声をかける。時計も映る。伝説の「1分」エピソードだ。デジタル・リマスター版だが、いわゆるデジタルっぽい鮮明さはなく、あくまでもオリジナル版の風合いそのままで、本当に感動。クリストファー・ドイルのキャメラが、これでもかというぐらい登場人物をクローズアップで映し出す。レスリー・チャンをはじめ、マギー・チャンらの瑞々しい表情に、ドキドキしっぱなし。短い会話と、登場人物たちが順番にモノローグで自分の心境を語るスタイルも独特だ。そして、改めてじっくり観ると驚くことも色々あった。まず、リーチェンとヨディの強烈な恋のエピソードが実は冒頭10分ぐらいで終わってしまい、あとはひたすら心の隙間を埋める二人の姿を描いていること。もともと私はマギー・チャンが大好き。かつてWebで本名を明かさない時代のハンドル名として「リーチェン」を長年使っていたぐらいだから、今まではレスリーとマギー・チャンしか目に入らなかった。でも本作は、ほぼ別れから始まる物語だ。そして、カリーナ・ラウ演じる踊り子ミミは、ヨディが寂しさを埋める存在として登場する。恋は完全に独りよがりで「都合のいい女」扱いだが、かなりパワフルで、作品のトーンをぐっと明るくしてくれる本当に魅力的な存在だ。実はこの春開催された第13回大阪アジアン映画祭で、カリーナ・ラウがプロデューサーも務めた主演作『青春の名のもとに』(タム・ワイジェン監督)が上映された。担任クラスの中学生男子と恋仲になる女性教師役で、大人の女性の魅力をみせる一方、途中ではチャチャっぽい踊りを踊ったり、作品の色合いも『欲望の翼』を思わせるものだった。そんな現在のカリーナをつい先日観たものだから、全身から情熱がみなぎるミミに今回は目が釘付け。もう一点、ヨディと養母との間にある束縛関係も彼の背景を知る上でとても大事な描写だ。実の母親のことを知りたい一心のヨディと裏でお金をしっかり受け取ってきたものの、送金がない今でもヨディが離れることを恐れる義母。自由に生きたいのに、お互いを束縛してしまう関係をラブストーリー同様しっかりと描いていたところにも引きこまれた。かつて観た時に感動した箇所はもちろんだが、新たに発見があったのは、その間私自身も少しは経験を積んだということなのかな。さまよう若者たち、鳴らない電話、すれ違う心。シンプルだが、60年代の香港で生きる若者たちの彷徨う姿がギュッと凝縮された、永遠の名作。現代の若い世代にもぜひ、ぜひ観てもらいたいな。

『デヴィッド・リンチ:アートライフ』自らの語りで紐解く、映画監督デヴィッド・リンチができるまで

『AMY SAID エイミー・セッド』大橋トリオのテーマ曲がリフレインする大人の群像劇

ずっとずっと頭の中でリフレインしている『AMY SAID エイミー・セッド』の主題歌。実名役で登場する大橋トリオのメロディーは、物憂げで、セピア色の青春を思い出す40代男女の物語にしっくり馴染む。村上淳、三浦誠己、渋川清彦、山本浩司、大西信満、渡辺真起子ら、映画界で独自の個性を放ち続ける名優たちが所属する俳優のマネージメント集団ディケイド。設立25周年記念の映画は、私の好きな俳優さん揃い。しかも舞台劇にもなりそうな密室劇なので、色々なハプニングや空気が変わる瞬間を作り上げる役者たちの芝居ぶりを、ちょっとドキドキしながら楽しめた。元映画研究会に属していた同級生たちの物語は、学生時代に自殺したエミのことがそれぞれの胸に引っかかっている様子が一目で伝わってくる。抜けない棘のように、口にしてもしなくても、その不在感がその場を支配する。怪しげな投資話をもちかける同級生の裏にいるヤクザ(村上淳)が店外で脅す中、エミの死の真相を巡る話や、40代の今思う本音が混じりあう。学生時代の映像も交え、密室劇でも飽きさせない。この作品でデビューを飾る若い俳優たちが、部室に集まって映画を作る役を演じるというのも、ある意味貴重だ。映画が好き、俳優が好きで髪形や服装を真似した学生時代。今、映画業界に残っている人間は売れない俳優の岡本(山本浩司)だけだ。現実は厳しいけれど、夢は夢として生きていく彼らは、戻れるところがある。同じ悲しみ、同じ感動、同じ青春を共有した仲間に贈る物語。それは変化の波にもまれても映画を愛し、ディケイドで切磋琢磨しながら俳優の仕事を全うしようとしている出演者の皆さんの物語にも見えた。ミニシアターの上映時は、出演者自らが舞台挨拶やトークショーに登壇し、ファンと交流する。パンフレットの代わりに販売されているクリアファイルはキャストが手描きイラストで網羅され、中には白い紙が。片面は出演者の今までの出演作がズラリ。そしてもう片面はサイン用とファンへの心配りが随所に。ミニシアターごとに文字色を変えた『AMYSAID』Tシャツを販売するなど、観客だけでなく、上映館も大事にしている。映画を作るだけでなく、届けるところに愛を感じる作品。きっといい会社なんだろうな。10年後と言わず、5年後の30周年にもぜひ、アラフィフの皆さんのまた新しい群像劇なんかができると、うれしいな。

『十年』若手監督陣が描く、香港の切実な未来

ようやく観ることができた。香港で公開された時は、最初は小規模の上映ながら、口コミでどんどん広がり、満席の客席では涙する人が多かったという話題作。それもそのはずだ。2014年若者を中心に「真の普通選挙」を求めた雨傘革命は、一国二制度が揺らぎつつある香港の現実と、民主主義を守ることが切実な状況を世界に知らしめることになった。2015年に10年後の香港を5人の若手監督が描く本作が作られ、大阪アジアン映画祭2016で日本初上映もされている。香港映画も新世代が台頭し、リム・カーウァイ監督プロデュースの「香港インディペンデント映画祭2017」でもインディペンデントの映画人が数多く紹介された。エンターテイメントのイメージが強い香港映画の中でも、確実に新世代が育ってきている。そんな彼らが撮った10年後は、なんと切実なことか。イギリス、中国と強国に支配され続けてきた香港人が、その中でも自らのアイデンティティを必死で守ろうとする姿。いや、守らなければ消滅してしまう危険性があるところまで、10年後の香港では中国本国に準ずることを要求される(と描かれている)。まんざら大げさではないだけに、そこにはある種の覚悟が滲むのだ。集会場で来場者を銃で脅す準備をする男性たちを描いた『エキストラ』(クォック・ジョン監督)。まさにディストピアと化した香港で、生活のあらゆる断片を標本にする男女を描いた『冬のセミ』(ウォン・フェイバン監督)。重い雰囲気で短編集が進んでいくのかと思いきや、ユニークな設定が目を引く短編、『方言』(ジェヴォンス・アウ監督)に目が留まった。標準語の試験に合格しなければ、ターミナルで客を乗せることができないペナルティを課されるという設定のタクシー。主人公は広東語しか話せず、不適格シールが貼られている。一度乗った客が、標準語が話せないと分かるや別のタクシーに乗り換えたり、ナビも標準語仕様で言うことを聞かなかったり、広東語がマイナー言語に化そうとしている社会を皮肉っている。客の方も、広東語しか話せない人の苦労が垣間見え、言語面から独立性を奪われる日常を的確に表現。本当に切実な問題を上手く描いている。香港独立を求めて、イギリスの領事館前で起こった焼身自殺に端を発した騒動を、有識者へのインタビューを挟みながら描いた社会派作品、『焼身自殺者』(キウイ・チョウ監督)。香港独立派のリーダー格の若者と思われた焼身自殺者。その正体が最後に明かされる。文革も天安門事件も体験したという老婆が残した言葉は「何を言われようと、めげずに闘え」。未来の香港人に贈る、とてもとても強いメッセージ。先人としての最後の役目を果たすという生き方もあるのだ。そして、香港最後の養鶏場が政府からの圧力で閉鎖されることになることから始まる物語『地元産の卵』(ン・ガーリョン監督)。小さな市場を営む店主を演じるのは、ヴィンセント・チュイ監督『狭き門から入れ』(08)でも主役を演じたリウ・カイチー。良くない言葉リストを手に市場に乗り込む、本国の警察風の制服を着た少年団に「地元産」卵というポップを写メされ、地元産という言葉の何が悪いのかと怒り心頭する店主。少年団の中にいた自分の息子には、「どんなときにも人の言いなりになるな。まず考えろ」と必死で生きる道を説く。同じような被害に遭ったのは町の本屋。だが、息子が店主にリストを渡し、禁書扱いとなりそうな本は別の場所へ避難させていた。でも、一番大事なのはそんな状態に慣れてはいけないということ。そして、その責任は店主の世代、つまり先人の責任でもあるということ。この部分は、今の私にもグサリと刺さる。日本がどんどん危ない方向に行こうとしているのは、バブル世代の私たちが自由を当然のように享受しすぎたから。まだ間に合う、そう信じるからこそ、この『十年』を作っているのだろうし、そしてこのような十年後にならないようにするのが、今の世代の責任なのだ。ちなみに、今年の釜山国際映画祭で、是枝監督がコーディネーターとなり、本作を基に、日本、台湾、タイで『十年』日本版を制作することが発表された。日本の若手監督たちは、どんな10年後を描こうとするのだろうか。来年の釜山国際映画祭でワールドプレミアを目指すという日本版も楽しみにしていたい。

『百日告別』想い出と共に生きようと思えるまで

愛する人を突然失ったら、どうやって生きていけばいいのか。震災などの天災だけでなく、テロや事故、もちろん戦争だってそう。一緒に思い描いていた未来も一瞬に消え、そして残るのは、どうして私だけがこの世にいるのかというどうしようもない気持ちなのだろう。大阪アジアン映画祭では2012年に特別招待部門作品として『星空』が上映され、ゲストとして来場したトム・リン監督(その後、審査員でも再び来場されているはず)。まだ若く、ファンタジックな世界を描ける台湾映画の新星として日本でも人気の高い監督だが、トム・リン監督の妻の死が大きなきっかけとなってこの作品が作られたことを知り、驚きもすれば、だからこそ、ここまで愛する人を亡くなった哀しみを抱えた人間をありのままに描けるのだろうと思った。主人公は自動車事故に巻き込まれ、お互いにパートナーを失ったシンミン(カリーナ・ラム)と、ユーウェイ(シー・チンハン)。法要で毎回顔を合わせていた二人が、四十九日の法要で初めて言葉を交わす。普通の映画なら、お互いに大事な人を失った者同士、最終的には結ばれるという筋書きが見えてしまうところだが、この作品は趣きが異なる。シンミンは一緒に食堂を経営しようと誓っていた恋人と行くはずだった沖縄グルメ旅に一人ででかけ、計画通り沖縄の食堂を渡り歩き、夜は一人のベッドで枕を恋人代わりに抱きしめて眠る。ユーウェイは心の平静がなかなか保てない中、ピアノ教師だった妻の生徒に月謝を返金するため、生徒の家を訪ね歩く。本当は泣きたくても、一人で泣くかと言えばそうではない。真に悲しみを共有できる人の前でだけ、悲しみをぶちまけられるのだ。抑制の効いた演出で、二人の心の動き、周りの家族の様子を真摯に映し出していく。本作が女優復帰作となったカリーナ・ラム。かつてはアイドルのような可憐さで香港映画に出演し、人気者だった彼女が、こんなに大人の女性となり、悲しみを抱えながら生きていくヒロインをじっくり体現できるとは。悲しみは簡単に癒えることはないし、波のように押し寄せてくることもあるだろう。でも、その気配をどこかで感じながら、または心の中で感じて生きようと思える日がきっとくる。トム・リン監督自身も、きっとこの作品を作ることで、妻との別れに向き合い、そして亡き妻に捧げているのだろう。愛する人との別れに向き合う、深深と胸に迫る作品だ。

『わたしたち』小学校時代の輝きとトラウマの記憶が蘇る

冒頭、クラス全員でドッジボールをしている。すぐに当てられて、コート外に出る女の子はおかっぱ頭、おでこを出して、少し小柄。このほんの数分で、小学校時代の自分がどんぴしゃりと重なり、胸が苦しくなってきた。今でこそ、身長も高くなり、マラソン大会にも出ている私だが、それも子どもの頃のトラウマを乗り越えたかったから。男女一緒のドッジボールでボールを当てられ、外に出たら最後、もうボールが私に回ってくることはない。戦力外人員だった。幸いなことに、それでいじめられることはなかったが、庇護される対象であり、運動面に関しては半人前扱いだったのだ。給食も食べるのが遅くて、給食後の掃除が始まってもまだ食べていたり(残すことがNGだった)、今から思えば本作の主人公ソンと私は、似ている部分が多いよな・・・。ドッジボールシーンの衝撃で話がそれてしまったが、夏休み直前に親が離婚したことで転校してきたジアとソンとの友情に、クラスの中心人物ボラが絡んでくる小学生女子の物語は、女の子特有のグループ意識がリアルに映し出されている。子は親の映し鏡だが、そういう点ではソンがおとなしく、クラスでは目立たないながらも、他の子どもたちのように友達を作るため、相手を無視したり、態度を変えることなく、自分を見失わずにいられるのは、家計を支えるため必死で働きながらも子どもたちに目配りを忘れない陽気な母の存在が大きい。また夏休みにソンがジアを家に招き、ソンの弟と三人で宿題をしたり、遊んだり、ご飯を食べたりと何気ない、でもかけがえのない夏休みの様子を光をたっぷり取り入れ、瑞々しく描写。学校という人間関係が時々刻々と変わり、楽しい時もあれば辛い思いもする日常との対比が鮮やかだ。友達の証であるお揃いのミサンガも、ソンとジアの関係の揺らぎを物語る。大人になればこそ、孤独を愛し、一人でいる時間の大事さを実感できるが、学校時代は孤独は「仲間はずれされたかわいそうな子」と見られ、そう見られるのがイヤで誰かと一緒にいたかった気がする。みんなで仲良くできればいいが、誰かをターゲットにすることで、それが踏み絵のように仲間とアンチ仲間を分けることが、どんどん低年齢化しているなとも痛感した。イ・チャンドン監督と1年間一緒にシナリオを開発したという、本作が初長編のユン・ガウン監督。面談やワークショップ形式のオーディションを重ね、役が決まった後も、何度も子どもたちを集めて即興劇をしていたそう。そうやって子どもたちと一緒に作業をすることが楽しいというユン監督。子どもたちの行動や会話をしっかり観察し、シナリオにも取り入れたといい、ドキュメンタリーのようにリアルな本作の描写は、ユン監督の粘り強い子どもたちとの作業の賜物だと思う。ドッジボールのシーンは、冒頭だけでなく、もう一度登場する。冒頭シーンは自分が重なったが、2度目のシーンでソンはぐっと成長していた。親友と思ったジアと仲たがいし、誤解を埋められない中、おとなしいソンのぶれない態度と勇気は、彼女を軽んじて見ていた周りの子どもたちに大きな衝撃を与えたはずだ。その勇気は、きっと大人になってもしっかりと記憶に残り、そして自信につながることだろう。小さな勇気が、全ての勇気の源になる。そんな姿を見せてもらった気がする。

『あさがくるまえに』美しい映像で綴る、二組の母と息子が対峙する”いのち”の物語

朝方、恋人にキスをして窓から飛び出し、ボードを車に乗せて友人と海に向かう青年。青春のなんてことのない、でも瑞々しい一コマは、海でもチューブを抜け、ポスターカラーの青が印象的な情景が広がる。波乗りを終え、車で帰路に着く途中で事故に遭う前での冒頭の数分で、帰らぬ人となってしまうシモン(ギャバン・ヴェルデ)の生の輝きをエネルギッシュに映し出すのだ。タイトル『あさがくるまえに』が示す通り、事故でシモンが脳死状態となってから、その命が受け継がれていくまでの丸一日を描いた本作。端的に言えば臓器移植の話だし、確かに生々しい場面もあるのだが、感傷的というよりむしろ粛々と描かれ、泣かせる話にしていない。シモンの両親、とりわけ母マリアンヌを演じるエマニュエル・セニエの現実を受け入れる間もなく、次なる判断に迫られ、悲しんでいる暇もない様子が逆にリアルに感じられる。それだけ、命をつなぐということは、一瞬を争うことなのだ。本作で描かれるもう一組の母と息子は、臓器移植を受ける側となるクレールとその息子たち。クレールを演じるのは、グザヴィエ・ドラン作『Mommy/マミー』で多動性障害(ADSD)の息子と必死で向き合う母親を演じたアンヌ・ドルヴァル。破天荒な母親役が印象的だったが、今回は息子たちに心配される側の、心臓を患う母親を演じている。二人の息子たちは性格も態度も全然違うが、母親を心配する気持ちは同じ。母親のベッドに息子たちが集合し、テレビで流れる『E.T』を一緒に観ているシーンは私のお気に入り。いくつになっても母の傍にいたい息子たちの姿が微笑ましい。この後病院に向かうクレールの精神的な支えになっているはずだ。人には寿命があると、心臓移植を最初は拒んでいたクレールだが、きっとこの子達のためにもまだ生きたいと切に願っているはず。臓器移植コーディネーターのトマ(タハール・ラヒム)がシモンを最後まで尊厳のある存在として扱っているのも、静かに胸を打たれる。命を扱う仕事の心構えを体現しているかのような厳粛かつ気持ちのこもった別れの儀式。交わることのない二組の母と息子、シモンの恋人など様々な人たちの運命を変えた一日が、一連の詩のように綴られ、生と死について、観終わって静かに考えを巡らしたくなる作品。まだ若いカテル・キレヴェレ監督の今後が本当に楽しみになった。