江口由美

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『36.8℃ サンジュウロクドハチブ』加古川がなんて爽やか!「カメ止め」どんぐりさんも涙した内気女子高生の青春映画

加古川が舞台の地域映画ができる、昔通っていた加古川市立図書館でロケをした等、懐かしさとどんな映画なんだろうという好奇心から出来上がるのを楽しみにしていた映画『36.8℃ サンジュウロクドハチブ』。昨年末、加古川での上映から時を経て、ようやく大阪・シネヌーヴォで見ることができた。映画24区の『ぼくらのレシピ図鑑シリーズ』第一弾として制作された本作。最初から瑞々しいブドウやイチジクが登場し、加古川出身ながら驚くことばかり。オープニングカットから登場する一級河川、加古川は地元民のオアシスであり、誇りのような場所。そこを2両編成の電車(加古川線)がヒョコヒョコと通り過ぎていく。かなり加古川の上流部分だが、なんてのどかなんだ。私は加古川でも中心部に暮らし、高校まで学校は徒歩圏内という加古川の都会民(とてもスケールがちっちゃい話だけど・・・)だったので、加古川にドラゴンボートのような大きなボートが浮かんでいたり、果樹園でフェスティバルがあったりという光景は実は未見。加古川といえば、鶴林寺と下村の穴子が定番、最近はそれにカツメシがプラスされたのだけど、この映画はそういうステレオタイプの加古川は脇に置き、穏やかな風景の中、進路や恋に悩む高校生女子たちを等身大で描いている。工場で共働きの両親に代わり、弟の面倒もよく見る若菜(堀田真由)は、最近彼氏と会えず、彼氏と同じ大学を志望していたものの、勉強もやる気が起こらない。友達からの誘いは断れず、彼氏にも言いたいことが言えない、自分に溜め込んでしまうタイプだ。果樹園や、地元の不動産をもつ名士の娘、実果(岸本華和)はいつも遊びに誘い、彼氏との仲を取り持とうとするちょっとお節介な友人。いい大学に行き、いい就職をするために熱心に塾通いをするマイペースな歩結(西野凪沙)は、実果の誘いをあっさり断る意志の強さがある。仲良しながら性格も進路も三人三様の女子高生たちの日々が、穏やかな加古川の風景の中、優しく綴られる。『幸福(しあわせ)のスイッチ』監督・脚本で劇場デビューした安田真奈監督の産後監督復帰作となる本作は、家庭描写もらしさがたっぷりだ。真由の両親役は、寺脇康文と渡辺真起子だが、特に渡辺真起子が播州弁をしゃべるなんて!とちょっと感激。大阪弁とはまた違う播州(加古川)独特のイントネーションをさらりとこなし、仕事が忙しい母親ぶりを発揮。そして、父親の誕生日に冷蔵庫のあり合わせで作ったという鶏肉とイチジクを中心にしたメニューは、美味しそうだけど、難易度は初級ぐらいで背伸びしていないのがいい。SNSで知り合った大阪のOLに憧れ、親には言えない進路の悩みを相談したり、本当にこのまま大学受験をすべきかと悩んだり、青春映画だが恋愛ありきではない、生々しい悩みに向き合うヒロインの姿をしっかりと描いている。地域映画ということで、進路を話している時に「父親のように神戸製鋼に行きたい(加古川には神戸製鋼の工場がある)」とか、両親が靴下工場を経営している(加古川は靴下でも有名)男子生徒が靴下のポスターモデルにと歩結に声をかけたり、地域の高校生をヒアリングしたんだろうなと思わせるエピソードもさらりと盛り込まれている。難易度が高い「加古川大学」とか、思わぬ架空の大学があるのには笑ったけれど。この日の上映後には、『カメラを止めるな!』テキトープロデューサー役で大ブレイクし、9月に映画24区に所属したばかりのどんぐりさんが安田真奈監督と登壇。実は思ったことをスパッと言えない性格というどんぐりさんは、真由が彼氏を前に、なかなか思いを口にできずにいるところで思わず涙したという。そんな意外!?な一面を見せたどんぐりさんを前に、「青春は熱いと言われるけれど、実は微熱のような日々の積み重ね。映画24区所属女優の堀春菜さんの案『36.7℃』が加古川の皆さんの投票で1位に選ばれ、最終的には気持ち高めの『36.8℃』にしました」と一見内容が分かりにくいタイトル秘話を披露。さらに、ちょっと内気なヒロイン像は、「初めて加古川で役所の方などに名物はと聞いた時、『姫路はお城がありますが、(加古川は)特に何もないんですよね〜』と言われて。ならば、そういう感じのヒロインにしてみたはどうかと思った」と加古川のイメージそのものを投影していることを明かした。世界遺産の姫路城を有する姫路と、港神戸の三ノ宮の間にある加古川は、正直パッとしないし、パッとしないからといって、無理やり地域振興をしようという変な欲もない。例えば、毎年12月23日に行われる加古川マラソンも、前日受付はなく、あらかじめゼッケンを送ってくれる。加古川にお金を落としてもらおうとか、観光振興に使おうという欲がびっくりするぐらいないのだ。一方肝心のマラソン大会の方は、地域の陸上部高校生たちがボランティアをし、寒い吹きっさらしの河原で地元の人も応援してくれる。消防団活動も盛んな、地域コミュニティがしっかり根付いている場所なのだ。

『人間機械』インドのワイズマン、繊維工場の過酷労働に肉薄

踊るように舞う火の粉。暗闇の中、ローラーから次々と繰り出されるのは、真っ白や、色とりどりの生地だ。すすっぽく暗い工場の中で、生産される生地だけは輝かしく、大きなスクリーンに映える。次々と折り重なる生地の横で、工場の労働者たちは同じ動きを繰り返す。その人間の筋肉の動きと生地のコントラストも鮮やかだ。工場音が鳴り響く中、そこで日々作業を繰り返す繊維工場の労働者たちを記録したインドのドキュメンタリー映画『人間機械』。個人的にもインドのドキュメンタリー映画は初めてだが、ドキュメンタリー界の巨匠、フレデリック・ワイズマンを彷彿とさせる観察ぶりと、鮮やかな構図、映像に目を奪われる。上半身裸の男たちが、汗を掻きながら大きな動きで生地を操るが、「神から手を授かった。だから労働は義務」と割り切っているのが印象深い。彼らは、ほとんどが職を求めて遠方から出稼ぎに来た人たちばかり。子どもの学費を稼ぐために、紹介業者にお金を渡し、旅費と合わせて借金をしてでも、この過酷な現場に働きに来ている。労働者の中にも中学生ぐらいの子どもがおり、インドの労働事情がうかがい知れる。工場の外で、カメラを物珍しそうに眺めていた労働者は、労働組合がないから12時間労働を強いられると憤る。この状況をなんとかしたい気持ちはあるけれど、経営者に対して、一致団結して労働者の権利を訴えることができていない。そんな苛立ちは、最後にカメラマンにも向けられるのだ。「ただ撮って帰るだけなら、政治家と同じ」だと。過酷な現場をこんなに芸術的に撮るとはと感嘆する一方、美しい生地の製作現場がこんなに劣悪で、しかも前近代的な工場であることを告発しているようにも映るのだ。本作がデビュー作というインドの新しい才能、ラーフル・ジャイン監督。この名前を覚えておかねば。

『顔たち、ところどころ』アニエス・ヴァルダ&ストリートアーティストJRがアートで綴る出会いと記憶の旅

年の差50以上だがフォトグラファーという共通点があり、会ってすぐに意気投合したというアニエス・ヴァルダとストリートアーティストJR。この二人が共同監督で作ったドキュメンタリーというだけで、胸が踊る。偶然のように見えて、実は入念に練られ、90歳になろうかという時期にヴァルダが撮った作品は、彼女が映画に遺しておきたい、または素晴らしい友人となったJRに見せてあげたい風景や人がたくさん登場する。ヴァルダがJRに出会った時から再三、口にしていたのは「黒眼鏡を外さないの?」フォトグラファーとして、相手の目を見たいと多分普通の人より強く思うのだろう。大ベテランのヴァルダに促されても、JRは頑なに眼鏡を外さない。その様子に「かつて私の友達にも黒眼鏡をかけている人がいた・・・」と『5時から7時までのクレオ』でカメオ出演している眼鏡を外したゴダールを映し出す。目の病気で手術をするときのヴァルダの目もクローズアップすれば、貨物車に貼るオブジェにも目の写真が使われているのだ。かと思えば、昔からずっと持っていた鉱夫の全身像が映るポストカードを引き伸ばしたり、ル・アーブルの港湾労働者の妻たちを呼び、彼女たちの全身像を、コンテナを100個以上積み上げた巨大な壁を作って、大オブジェを作り上げる。部分と全体、個人と公共を混ぜ合わせながらのアート活動で一貫していたのは、とにかくVillage(村)をまわるということ。教会の鐘をつく人、農場経営者から、無職の自称廃材アーティストまで、村で出会う人々の話を聞き、彼らを元気付けるアートをダイナミックに仕上げていく。中でも興味深かったのはヴァルダが、最近はヤギの角を切っていることが多いことに疑問を呈していたこと。ヤギの角を切らずに飼育することを信条とする養牧者を訪れると、角が生えたままのヤギを小屋のアートにしている。実はサンドリーヌ・ボネール演じる少女モナが行き当たりばったりの旅をするヴァルダの監督作『冬の旅』(85)で、モナが若い家族が経営する農場にしばらく落ち着くシーンがあり、そこでは立派な角が生えたヤギがたくさん飼われていた。ヴァルダの中のヤギの記憶がそれであれば、角にこだわったのは無理もないなと、点と点が線でつながっていく。また、若い頃にフォトグラファー、ギイ・ブルタンと写真を撮った思い出の海岸では、20年前、人工的に海岸へ落とされた巨大な壁のような岩に、懐かしい写真を引き伸ばして、貼り付ける。作業は大変、でも自然の猛威には逆らえない。次の日には消えてしまっているアートを見て、何事も一期一会であると強く思わされるのだ。その一期一会は、ヴァルダとJRにも当てはまる。旅の合間に二人は向き合い、人生について語り合う。映画を撮っているときは気丈でも、ヌーヴェルヴァーグ時代の友人がどんどんこの世を去っていき寂しさを抱えるヴァルダは、JRに素直な心情を打ち明ける。100歳の祖母と小さい頃から触れ合ってきたというJRは、そんなヴァルダを温かく受け入れる。魂の共鳴とはこのことだなと思う美しい瞬間だ。アート、伝承、そして人との触れ合いと、ヴァルダらしい構成で、JRと素晴らしい友情を焼き付けた美しい作品。特に女性の声を聞き、彼女たちを励まし、讃える姿に、映画業界における女性監督の先駆け的存在を果たしてきたヴァルダらしさを強く感じた。

『寝ても覚めても』男と女の”愛”に向き合う至福のとき

私の初めての濱口作品との出会いは、2010年4月、大阪で行われたシネ・ドライヴで上映された長編デビュー作『何食わぬ顔』(03)だった。PLAX賞を受賞した時のコメントでは、自身の最新作が上映されたにも関わらず、デビュー作で受賞したことに、シネ・ドライヴ事務局からのプレッシャーを感じると語っておられたのが印象深い。それだけ10年近く前から、早く多くの人に観てもらえるようになってほしい監督と既に太鼓判を押されていた。私の中では大人の恋愛模様を実にリアルに、しかもオリジナル脚本で描ける作家というイメージが強かったが、東日本大震災以降、濱口監督は東北で酒井耕さんと共同監督でのドキュメンタリーをシリーズで制作。映画を撮っているときは、現地に在住するというスタイルは、その後神戸で『ハッピーアワー』を撮る時にも踏襲された。『ハッピーアワー』では演技経験のない人も多数起用し、ワークショップを重ねて、撮影前に徹底的に準備を重ね、第68回ロカルノ国際映画祭では国際コンペティション部門で4人の主演全員に対し最優秀女優賞が授与されている。4人の主人公それぞれの等身大の恋愛模様や夫婦問題を描き切り、5時間があっという間だった。そんな濱口監督がいよいよ初の商業映画を手がけ、しかも原作モノにも初チャレンジと、長年濱口監督作品を楽しみにしてきた者としては期待で胸いっぱいの第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品作『寝ても覚めても』。冒頭で見覚えのある場所が出てきて、いきなり前のめりになる。水都大阪を象徴する川辺の風景から、堂島にある国立国際美術館で運命の出会いの場となる「牛腸茂雄写真展 self and others」のシーンに。いくつか写真がある中でも、瓜二つの双子の少女の写真の前で立ち止まるのがヒロインの朝子だ。まだ恋というものを知らないふんわりした雰囲気の朝子が、鼻歌を歌いながらその場を通り過ぎた麦と川沿いで出会う。爆竹のパチパチとした音は、まるで二人の心の中の何かが弾けた音のよう。恋が始まる甘やかさでいっぱいだ。放浪癖のある自由人、麦と、常に一緒にいないと不安になるぐらい好きだった朝子。麦が突然いなくなってから時が過ぎた東京編からが、いわばこの物語のスタートラインになる。麦と瓜二つの顔をした大阪出身の亮平に出会った朝子は、動揺を隠せない。そんな麦に亮平は嫌われているのではという思いを抱きながらも、どんどん惹かれていく。ここでもギャラリーで開催されていた「牛腸茂雄写真展 self and others」が亮平と朝子が繋がるきっかけを果たすのだ。ルームシェアをしている朝子の友人の演劇はヘンリック・イプセンの『野鴨』。朝子が行く予定だった金曜の昼公演に半休をとって亮平が駆けつけるが、朝子はいなかった。諦めにも似た気持ちで演劇を見ようとした時に、日本人なら説明なくても分かるその瞬間がやってきたのだ。濱口監督は、東日本大震災とその後の人々の心の揺れ、恋人たちのつながりを、ここで描き出している。死ぬかもしれないという思いをした後は、つまらない意地や過去の痛みを捨て去り、今会いたいと想う人の元に飛んで行く。原作にはない、日本人の記憶を伝える名シーンが生まれたのだ。一人二役を演じた東出昌大、特に大阪弁の亮平は、唐田えりか演じる朝子が終始思い悩み顔だった分、物語に活気を添える。テレビ版の『この世界の片隅で』や、『榎田貿易堂』でもエキセントリックな演技に釘付けとなる伊藤沙莉は、口は悪いが頼りになる大阪の友人春代を小気味よく演じ、いいアクセントになっている。家政婦は見たじゃないけど、「猫は全て見ている」というぐらい、食事のシーンでも食事をしているところは一切映さない代わりに、なぜか猫を映しているのも面白い(後々、さらに大きな役目を果たすのだけど・・・)。震災後毎月通っていたという仙台で、亮平と朝子が市場の手伝いをするシーンは、手持ちカメラでドキュメンタリーのように撮影し、活気が溢れている。濱口監督らしさを感じるシーンだ。なんとあの仲本工事も登場しているなと思ったら、こちらもまた重要なシーンで登場。大阪の友人の母親役で登場する田中美佐子も、若い頃の恋愛について思わぬ本音を漏らすし、それぞれが愛に悩む朝子の目を開かせてくれる役割を果たしているのがいい。麦が実は有名人となって成功を収めていることが分かってから、物語は急展開していく。同じ顔をしながら、性格は正反対の”運命の人”を前に、朝子が下す決断にヒヤヒヤ、ドキドキさせられながら、それと同時に私だったらどうするだろうと考えてしまう。まさに同じ問いを自分に投げかけられているように。また、亮平の態度を見て、違う人の陰に怯え、朝子に愛されるためにいい人でいようとした亮平のことを思う。そして、本当に大事なものは失ってから気づくのだと思い知らされるのだ。麦と朝子といい、亮平と朝子といい、恋する二人というのはお互いしか見えていない。言い方を変えれば共依存の関係だ。ラストシーンの二人の発した言葉と、二人の姿を見て、彼らは共依存を脱することができるのではないかという予感がした。共依存の恋愛しかできなかった朝子が、自立した自分を持ち、相手を愛そうとする人間になるまでの物語、とでも言えようか。濱口監督が描く恋愛物語は、登場人物たちのリアルな感情から発するセリフで男と女の気持ちのひだを丁寧に、時には激しく映し出す。原作のエッセンスを見事に昇華させた板挟み恋愛物語に、愛の前では自分を抑えられない人間の愛おしさを改めて感じた。